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「男らしい」でも「女の子なのに」でもなく、ただ「私」として生きていきたい

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恋愛対象は男性で、いわゆる“女性らしい”服装も好きだけど、「かっこいいね」と言われるのもうれしい。男か女かなんて関係ないはずなのに、ただの“私”で生きていくのはどうしてこんなに難しいんだろう。マドカ・ジャスミンさんのコラムです。

「男らしい」でも「女の子なのに」でもなく、ただ「私」として生きていきたい

24年間の人生を歩んでいく中、自分の性別に疑問を抱いた経験が一度もないかと言われたら、全くもってそうとは限らない。

私の身体の性(身体構造における性)は女性で、性自認も女性。恋愛指向は男女どちらもだが、性的指向は男性。セックスに重きを置いて生きている故に、私の恋愛相手は性的指向とも合致している男性しかいない。現在交際しているパートナーも、男性だ。

しかし、「それなら性表現(※)はどうなの?」と問われると、どうしたものか。うまい返答が浮かばない。身体の性、性自認、恋愛指向、性的指向。この4つを加味すれば、私の性表現は女性になるだろう。けれど、そう言い切ろうとすれば、何故か心臓に違和感を覚えるのだ。

■「かわいい」も「かっこいい」もうれしかった

この違和感を最初に感じたのは、幼少期。

保育園の年長時代、母親お手製のパフスリーブが特徴な小花柄のワンピースを好んで着ていたことを思い出せば、自分の好みとは随分と小さい頃に形成されるのだなと感心を覚える。

昔からワンピースや女の子らしいデザインのファッションを選んで身に纏い、持っているおもちゃも「リカちゃん人形」や『おジャ魔女どれみ』など、いわゆる“女の子向け”のものが中心だった。これを聞いて、「どこに自分の性表現を悩む要素があるの?」なんて不思議に思われるかもしれないが、話が終わるとは誰も言っていない。

ピンク、花柄、ハート、フリル、レース……そういったものが好きな反面、たまに青を基調としたボーイッシュなパンツルックで公園にでも行けば、必ずひとりにはこう言われるのがお決まりだった。

「かっこいいね!」「かわいい男の子だ」

私は保育園で既にショートカットデビューを果たしていた。ボブよりも短い黒髪に映える白い肌。ボーイッシュスタイル。昔から自他共に認めるほどの中性的な顔立ち。そう、第二次性徴を迎えるまで、私は男の子によく間違われていて……もっと言えば、そういった言葉に落胆ではなく喜びをも感じていたのだ。

元々、特撮ヒーローなどの“男の子向け”と呼ばれるジャンルも好きなのもあったのか(私にとっては『おジャ魔女どれみ』よりもウルトラマンやスーパー戦隊に対する敬愛のほうが強い)、拒否反応どころか「もっと言ってほしい」という欲求すら抱いていた。

そういった感情は年々弱まるどころか、強くなっていった。小学校に入学してからは髪を伸ばしていたものの、男性に向けるような褒め方をされればうれしく思い、さらには女の子が悲しむような場面があれば、即座に助けに入りもした。高学年の頃、よく着ていたコーディネートはまるでサッカー部の男の子のよう。

(もしかしたら、心は男かもしれない)

ふと考える瞬間もあった。でも、女の子らしい格好も嫌いというわけではなく、むしろ好き。当時ハマっていた『テニスの王子様』に登場するキャラクターにだって、淡い恋心を抱いていた。かすかに灯り始めた性欲も、対象は男性。膨らんできた胸や始まった生理にも違和感は一切ない。

「かわいいね」と言われたら、うれしい。
「イケメン! かっこいい!」と言われても、やっぱりうれしい。

「女の子なのに変なの」と言われたら、悲しい。
「男じゃないのに意味不明」と言われても、同じくらい悲しい。

いよいよ、自分がどんな性なのかがわからなくなり、それから十年以上経った今でもはっきりとした答えは見つけられてはいない。ただ当時に比べ、セクシャリティを知る機会やツール、それについて発信している人たちの情報もあり、「自分はヘンな人間だ」といった強迫観念に囚われずには済んでいる。それができるだけでも、だいぶ生きやすくはなった。

■常に付きまとう、“女”というレッテル

とはいえ、悩みが完全になくなったと言えば嘘になる。

まだまだ課題はあれど、女性も東京を中心に社会進出が進み、管理職や社長職を担う女性も珍しくはなくなってきた。古くから良しとされていた女性の自由を奪う伝統も徐々に緩和されてきていて、女性だからという理由だけで結婚や出産を強要するような社会的風潮も淘汰される勢いだ。「男性が女性を養うべき」という固定観念も、段々となくなりつつある。私の周りでは、女性のほうが収入が高いカップルも少なくない。

これだけ羅列してみれば、女性はとても生きやすくなったように見えるだろう。ただ、それはあくまでも“見える”だけ。

いくら“自分らしく”生きていようと、常に“女”というレッテルは付きまとう。恋愛で積極性を出したり、SFやロボット系映画などの趣味を伝えたりすると相手に引かれ、100%の“女”を求める男性から怪訝な顔をされることもある。

2020年になっても、私が物心を覚えた頃から抱いてきた違和感は解消されるどころか、年々深まっていっているとすら感じざるを得ない。

たとえば、男性と対等に渡り合おうとすれば、それに見合う年収や仕事内容が求められているように感じてしまう。一方、同じ人間関係だとしても、恋愛となれば話は異なる。「女性が必要以上に幼さや弱さをアピールしなくてはいけない社会はおかしい」という風潮が強まっているとはいえ、「自分の意見をうんうんと聞いてくれるだけで意見を主張しない女性」「かわいらしくて守ってあげたくなる女性」を理想の交際相手や結婚相手の条件として挙げる男性の話もよく見聞きする。

“女性らしい”振舞いを求められながらも、社会的な評価に繋がる指標はすべて男性的。そのギャップがあまりにも激しく、一体どんな自分で、どの性別で生きていけばいいのかが時折あいまいになって仕方ないのだ。愛情やセックスは女性として欲し、仕事をこなしていくには男性の皮を被る。そんなことを繰り返していれば、本質的な“自分”が何者かがわからなくなるのも無理はない。

そもそも、男らしさや女らしさとは何なのだろう。うまく説明できない。きっと、これらをうまく説明してしまったら、私の心は移りゆく社会の狭間で死に絶えていくとも想像がつく。「そんな大げさな!」と笑う人がいるならば、私はこう叫んでやりたい。

「昔の誰かが勝手に決めた基準なんかで私を言葉にしないでくれ! もうこりごりだ!」

「いい加減、自分を認めたいんだよ! こういう自分を認めさせてくれ! 頼む!」

「頼むから……」

「頼むから、このままの自分を愛させて」

「愛して」


※服、仕草、言葉遣いなど、外面的な要素で自分の性別を表現する方法のこと

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マドカ・ジャスミン

持ち前の行動力と経験を武器にしたエヴァンジェリストとして注目を浴びる。また性についてもオープンに語る姿が支持を集め、自身も性感染症防止の啓蒙活動を行う。 近年では2018年に著書「Who am I?」を刊行。テレビ番組や雑誌...

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