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美容は別人になるための魔法じゃない

30代半ばを過ぎてから、どんなメイクもしっくりこなくなったというエッセイストの紫原明子さん。そんなとき、プロのヘアメイクさんに施されたテクニックで「今本当に求めている化粧」に気づくことに。「別人になる化粧」を手放し、新たに手にしたものとは。

美容は別人になるための魔法じゃない

私の美容に関する意識は基本的にはかなり低く、昔は低いことに罪悪感を持っていた。けれども年齢とともにその罪悪感はどんどん薄まり、最近はようやく絶好調になってきた。「私は美ではないところでパフォーマンスを発揮しているから、一般的な美の追求は誰かに任せよう」と思うようになった。

特に女が物を書いたり、たまに人前で話すような仕事をしていると、どうしても当然のように本業の能力とは別に、若さや外見の美しさを求められる傾向にあり、これはとにかくめちゃくちゃ鬱陶しいなと思う。運動能力とか、歌のうまさとか、体の柔らかさとか、そういった能力については万人に強いることのない一方で、美しさだけは全員が備えるべき、という風潮はまったくどうかしてる。何かができたって美が落第点なら人間失格、そんなことあるか。

私は美のプロではないから、美を極める時間で私の仕事をする。自分が楽しく、健やかでいられなくなるような過剰な美を自分に要求しないことに決めている。本業でもないのに過剰に美容まで頑張ろうとすると人に優しくする余裕を失ってしまうから、世の中のためにもならない。

一方で、自分が気持ちよくなり、健やかになり、卑屈になることを防ぎ、他者に笑顔を向けるための一助となる美容とは、仲良くし続けたいと思う。何せ人生長いし、いつまでも変わらない自分でいると、やっぱりいつか「飽き」がくる。

■化粧は「別人に変わるための道具」だったけれど

思えば私なんて随分早いうちに自分に“飽き”を感じていた。10歳を過ぎた頃には、いつまでも自分でいなければならないことにほとほと嫌気がさしていた。

けれどもそれから数年が経ったある日。忘れもしない、実家から電車で30分ほどの街にあるTHE BODY SHOPで、優しい店員のお姉さんが初めて私に一から、化粧のいろはを教えてくれたのだ。ファンデーションはこう塗って、チークはこう塗って、眉毛はこう描く。

お姉さんに化粧を施された私の顔は、それまでの私とはまったく別の人の顔のように思えた。化粧をして、生まれ変わったような気にさえなった。気分が高まり、可能性を感じ、それ以来化粧は、私がもうひとつの顔を手にし、別人に変わるための魔法の道具となった。

ところが、30代も半ばを過ぎた頃から再び事情が変わったのである。次第に、どんなに化粧をしても今ひとつパッとしない、謎のスランプに陥った。旬の化粧品を使ったり、眉毛の形を流行りのものに変えたりもしてみた。しかしやはり、なんとなく思っているのと違う。

そこで昨年、同じような悩みを抱えた友人らと、プロのヘアメイクをやっている知人のTさんにお願いして、パーソナルメイクレッスンを受けた。するとこれが本当に画期的だった。このときのTさんの教えによって、私は大きな気づきを得たのだ。

Tさんの基本的な考え方は、“歳を重ねれば重ねるほど、化粧は極力シンプルにしていくべき”というものだった。シミやクマといった肌の粗を、カバー力の高い下地やファンデーションで塗り隠そうとしてはいけない。なぜなら老けて見えるからだという。

……この「老ける」という言葉もまたざっくりしすぎで語弊を招く。私達はこの言葉を無自覚に使うことによって、自動的に「加齢は悪」という印象の強化を後押ししてしまっているけれど、厳密に言うと私達は年齢より上に見えることが怖いのではないのだ。元気がないように見えたり、古いものに固執しているように見えるのが嫌なのだ。だからくすんで見えない肌を作るし、血色の良く見えるチークを入れる。化粧によって作られた自分によって自分が鼓舞されるためにも、元気に、健やかに見える自分でいたい。

そんな私たちの本音を知り尽くしたTさんは、あえて下地も、カバー力の高いファンデーションも使わない。その代わり、アルガンオイルとハイライトを仕込んで地肌をピカッと光らせ、その上に薄付きのリキッドファンデを顔の中心部分にだけ塗るのである。中心以外の部分には少しだけ粉をはたいて、それで終わり。透けるファンデーションの下にはたしかにシミやクマの粗が存在している。ところが光によってパワフルさを増した地肌が、「シミやクマはありますが、だから何?」と言わんばかりの威風堂々を全力で演出してくれているのである。

■美人に見えなくても、若く見えなくてもいい

これこれ、今私が求めているものはこれだったんだよな! と思った瞬間に、はたと気付く。年齢とともに変わったのは化粧ノリや顔の形でもない。何より私の意識だったのだ。

Tさんによって仕上げられた新しい私の顔は、決して「別人」ではない。元気に見えて、しかし上品さもあって、「別人」というよりむしろ、バージョンアップした私。“私2.0”くらいの私。今日日何にでも2.0をつけるのはダサいのかもしれないが、それでもたしかに少しだけパワーアップした私だったのである。

自分でも気づかないうちに私は、化粧によって別の人になりたいとは思わなくなっていた。代わりに、私は別に私のままでも割といいなと思っていたのだ。
私でいたい! と断言できるほどの自信があるわけでもない。しかし37年も私のままでいると、そこにもはや妙な愛着が湧いてきて、私でいることを否定はしたくないな、という気持ちが、たしかに芽生え始めているのである。

だからこそ、私が今、本当に化粧に求めているものは、美人に見えることでも、若く見えることでもない。私のままでいようとする私を「それでよし!」と強力に肯定してくれる力なのだ。

もしも向かいから自分と同じ顔の人が歩いてきたとして、私は果たして「あの人、私と同じ顔!」と気付くことができるんだろうか。そんなことをたまにふと考える。

顔って不思議なもので、鏡を使わなければ自分では見ることができない。私の顔を長く見るのは、本来私ではなく、家族や仕事相手、友人など、周りの人のはずなのだ。にも関わらず自分の顔というのは、他ならぬ自分の意識や意欲を左右する、強い力を持っている。そこに踊らされるのでなく、うまく利用し、味方につけたい。自分の外見を磨く美容という行為は、他ならぬ自分自身を勇敢にする、そのためにこそあると私は思う。

紫原 明子

エッセイスト。1982年福岡県生。二児を育てるシングルマザー。個人ブログ『手の中で膨らむ』が話題となり執筆活動を本格化。『家族無計画』『りこんのこども』(cakes)、『世界は一人の女を受け止められる』(SOLO)など連載多...

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