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45歳で白髪染めをやめた。そして、自分の心が喜ぶ生き方を見つけた

18歳から白髪に悩み、27年間、白髪染めを続けてきた朝倉真弓さん。45歳の誕生日に「白髪染めをやめよう」と決意してから「グレイヘア」ブームの立役者となるまでには、さまざまな葛藤がありました。それを乗り越え手に入れた、“自由な生き方”とは。

45歳で白髪染めをやめた。そして、自分の心が喜ぶ生き方を見つけた

18歳から45歳まで、27年間ずっと続けてきたこと。それは、白髪を染めて隠すという行為だ。

10代の始めから白髪に悩まされてきた私は、大学に入学してすぐに髪を染めた。周囲の友人と同じ髪の色になれた私は、とても幸せだった。その後もずっと、私は白髪を染め続けることで、実年齢に合った見栄えを手に入れてきた。

顔周りの白い髪は、実年齢以上に老けた印象を与える。それを濃く染めただけで、一瞬にして時を巻き戻したような見た目に変わる。それはまるで、ドーピングのような感覚だ……使ったことはないけれど。

しかし、若々しさに満足できるのは、たった数日だけ。しばらくすると生え際がきらりと白く光り、いまいましい白髪が顔を出す。それをまた染めて隠すも、再び数日後には白髪がこんにちは。その繰り返しだとわかっているのに、ドーピング……いや、白髪染めから離れられない。

私の心と身体は、いつしか白髪染めに悲鳴を上げ始めた。薬剤による頭皮の痛みやかぶれがあっても、「人に会う前には染めなければならない」という強迫観念に苦しめられ続けた。

■なぜ白髪を隠さなければならないの?

悲しいことに、いくら頻繁に白髪染めを重ねても、白髪は決して黒くならない。見える部分が一時的に染まっただけで、隠せば隠すほど本当の色の存在感が気になって仕方がない。

ただ白い髪というだけで、私はなぜ、自分の髪を愛せないのだろう?

45歳の誕生日、サロンに行く時間がなかった私は、自宅でセルフカラーをしていた。そのとき、私のなかで、何かがプチンと切れた。

いくつになってもうれしいはずの誕生日なのに、私ったら、なんでイライラしながら白髪染めなんかしてるんだろう? 誰のために? 何のために? 白髪って、相手に見せてはいけないほど失礼なものなのだろうか?

――私はこの日のカラーを最後に、白髪染めをやめてしまおうと決意した。

■年寄りに見える恐怖の底深さ

私が白髪染めをやめることができた最大の理由。それは、“若見え”の呪縛から離れられたからだ。

45歳の誕生日に思ったことは、「アラフォー、あわよくば30代に見えることよりも、年齢相応のアラフィフに見えればそれでいい」だった。

アラフィフ……つまりは、50代に見られる可能性だってある。45歳なのに50代と言われたら、年季の入った乙女心も少しは傷つくかもしれない。でも、そのわずかな年の差に何の意味があるのだろう?

若い頃は実年齢に合った見栄えを手に入れるために染めていたはずなのに、私はいつしか、「実年齢よりも少しでも若く見られたい」という呪縛にとらわれていたようだ。

とはいえ、実際に白髪染めを止めてからの批判は相当だった。今ほど「グレイヘア」という言葉が浸透していなかった、3年前のことである。河童のお皿のように白い部分が広がっていく様子に、「みっともないから染めなよ」と、何度も言われた。ジロジロと無遠慮な視線を投げかけられたこともある。

今でこそ、私はグレイヘアブームの立役者のひとりとして、メディアに取材していただくことも増えた。しかし顔を出して取材を受けるたびに、ネットには「女を捨てている」や「気持ち悪い」「汚らしい」といったコメントが並ぶ。

年上に見える問題に関しても、蓋を開けてみたら50代どころの話ではなかった。「60代のおばあちゃんに見える」「いや、70代だろ」などという言葉さえ投げつけられる。乙女心もびっくりの想定外だ。

白髪というものは、人間が本能として持っている老いや死への恐怖を想起させるものなのかもしれない。だから、まだ若そうな顔立ちなのにそれを隠さずにいる人を見ると、気持ちの処理が追い付かなくて攻撃したくなるのだろうなと思う。

だからといって、批判の言葉をマルっと受け止められるほど、私はできた人間ではないのだけれど。

■手放す自由と、こだわる選択

私は、老いや死の象徴に立ち向かうという選択もあれば、受け入れるという生き方があってもいいと考えている。もちろん白髪への対処だけではない。しわ、シミ、たるみ、体形の変化……。闘っても、受け入れても、それはその人の選択だ。

ある日取材をしに来てくれた新聞記者の女性は、私と同い年だった。彼女はメイクを少しずつ手放していき、今はほぼノーメイクで過ごしているという。その代わり、白髪染めはきっちりとしていて、やめようという発想さえなかったと話してくれた。

一方の私は、悩んだ末に白髪染めをやめたけれど、メイクはこれまで以上に楽しんでいる。そもそも私は、メイクをやめたいと思ったことがない。グレイヘアになった今は、これまでよりも華やかな色合いのチークや口紅をチョイスしている。

お互いに「その発想はなかった!」と言いあい、お互いの選択を面白がったけれど、これこそ価値観が多様化したひとつの姿なのではないかと思う。

何をうっとうしく思い、何をやめるか、何を良いと感じて何を取り入れるかは、その人次第。必ずしも自分と同じ選択をする人ばかりではない。すぐ隣に、正反対のことをし始める人もいるということだ。

■その美の常識は、自分の心を喜ばせているだろうか?

振り返ってみると、「こうあるべき」という美の常識をひとつ手放してみただけで、生き方そのものまで自由になった気がする。

たとえば、「仕事の場で目上の人と会うときにはジャケット着用」という暗黙の了解に沿って生きてきたけれど、とりあえずのジャケット姿よりも、相手のことを良く考えて選んだ装いのほうがはるかに敬意は伝わると、自信を持って言えるようになった。

「誰かがこう言っているから」という横並び意識がふっと芽生えた瞬間に、「本当にそうなのかな? それでいいのかな?」と自問自答する余裕が生まれた。

メイクもファッションも、流行や他人の目ばかりを意識して選ぶのではなく、自分の心が喜ぶ色や形を厳選する楽しさを味わっている。それはときに面倒くささも伴うけれど、そのこだわりがゲームのように心を躍らせることを知った。

人生100年時代と言われる今、現在48歳の私は、ちょうど後半戦の入り口に立ったところだ。

私の人生後半戦は、これまで以上に自由でカラフルになる予感がする。何より、前半戦で咲かせた花以上に、大きくて力強い、個性的な花を咲かせることができると信じている。


朝倉 真弓

ライター、講演家。「人生もうひと花咲かせる」をテーマに活動中。自著は『「グレイヘア」美マダムへの道』ほか8冊。ユニリーバ社DoveのCMに出演。

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