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「なんで差別に敏感なの?」悪気なく残酷な質問をした彼へ

自分の辛さが社会で「なかったこと」にされたときに感じる悔しさやむなしさ。しかし誰もが「自分に見えていない差別」には気づけず、ともすれば不用意に人を傷つけてしまう可能性があるのだとすれば、私たちはどのように生きていけばいいのでしょうか。

「なんで差別に敏感なの?」悪気なく残酷な質問をした彼へ

「最近社会で活躍してる女の人って性差別に敏感ですよね。なんでなんですか?」

なにげなくそんな質問をされたことがある。つい最近のことだ。

質問の主は男性で、一切の悪気はなく本当に純粋にそのような疑問を抱いた結果、「社会で活躍していて性差別に敏感そうな女の人」っぽい私に聞いてきたのだと思う(私が社会で活躍しているのかどうかはさておき、Twitterやnoteでそういった発言をしてきたのは確かだ)。

私は一瞬の間を置いてから、ああ、この人がうらやましいなあと思った。この人には「見えて」いないのだ。他の「社会で活躍する女の人」が全員そうだとは思わないけれど、少なくとも私がこれまで「社会」で働いてきたなかで避けて通れなかった、いろんな壁もモヤモヤも、この人には見えていない。無邪気で残酷な質問は魚の小骨のように心に引っかかった。

■差別に敏感なのは「そこに差別があるから」

どうして差別に敏感なのかって、答えはひとつしかない。「そこに差別があり、不利益をこうむっているから」である。

「社会で活躍してる男の人」とは呼ばれないのに「社会で活躍してる女の人」とは、なぜか特別なイメージを伴って呼ばれる世界で、当の「女」として生きているからである。


彼の質問を受けて思い出したことがある。スポーツバーでサッカー観戦をしたときのことだ。お店のスクリーンの周辺には人だかりができていて、みんな選手たちの動きに一喜一憂している。私は後ろのほうにいて、背もそこまで高いわけではないのでなにがどうなっているのか全然見えなかったのだけど、試合は進んでいく。同じ空間で同じくらいのお金を払っていても、結局どっちが勝っているのかを前の方の人たちの雰囲気で察するくらいしかできなかった。そうやって困ったような笑ったような顔をしている人たちは、私の他にもいた。

そのとき、「前で試合を見ている人たちは、うしろで試合が見えてない人たちのことは見えてないんだろうな」と、手持ち無沙汰なせいで減りがはやいコロナビールを片手に思った。

前で見たいなら早く来て場所を取ればいいと言われればそれまでなのだけど、とにかく「その場で損をしていない人は損をしている人の存在が見えなくなる」ということを体感したのを覚えている。


彼の質問も、早い話がそういうことだ。「ここってけっこう楽しく試合観戦できる場だと思うんですけど、どうしてあなたたちは“前の方で見れない”ことに敏感なんですか? なにか特別な理由があるんですか?」と彼は問うているのである。私より前の席から。

■「なかったことにされる」世界で働くということ

その質問を絶対に許さないとか、だから男はみんなクソだとか、そういうことを言いたいわけではない。ただ、不利益をこうむっていない人からは損をしている人たちが存在すること自体がわからないのだなと知ると、私も「そっち側」だったらよかったのにと思わずにはいられなかった。

「社会で活躍している女の人」と呼ばれることは、あのスポーツバーで人混みをかき分けて前に出ていくようなものだと感じる。好きで人にぶつかっているわけではないし、好きで「道をあけてください」と声を上げるようになったわけではない。そうせざるを得なかっただけだ。

なにも「前の方の席を全部よこせ」とは言ってない。
だけど、せめて声を聞いてくれたら。
後ろの席にいる人たちのことを、なかったことにしないでくれたら。
こんな思いを露とも知らずに、その質問ができる立場に生まれていたら。

スポーツバーの外の日常で、毎日そんなことを思っている。

■怖がりながら「見えていない世界」を思う

けれど、彼の見えないところに差別があるように、私が想像もしないようなところにも「試合が見えていない人」は存在する。

そこにいる人たちにとっては、私も彼と同じだ。

「こんなに損な思いをしているのに、それを知りもしないでのんきに生きている、心底うらやましい奴」。性別や人種や国籍、住んでいる場所、就いている仕事。違う場所で、私の背後でそう思っている人はいまこのときも確実にいる。

誰もが誰かの不利益を「なかったこと」にして、なかったことにしていることすら気づかずに生きている。なんてままならない生き物なんだろう、私たちは。

ままならないならままならないなりに、せめて、「自分には見えていない世界があって、気づけてすらいない不均衡が確かにあり、知らないうちに自分も差別に加担しているかもしれない。かなりの確率で」と思いながら、怖がりながら生きていくしかないのかもしれない。

しばしば意図せず人を傷つけ、見なかったことにしたことすら見えていない私たちの、なんて狭い視野。なんて低い解像度。

それでも、そんな私たちが身を寄せ合って生きていくためにはまず「見えていない」ことを自覚するしかないのだ。

絶望的なことだ。人を傷つけたことに自分も傷ついて、それでも後ろを振り返って話を聞き、行動言動をその都度改め、おっかなびっくりやっていかなければならないのだから。めんどくさいのだ、正直。「見えていない」ことを見なかったことにしたほうが、楽に決まっている。

それでも、そんなめんどくさい臆病さなしに、「今よりまし」な世の中にしていくことはできない。それは偽善でもなんでもなく、いままさに後ろの方の席しか与えられていない人たちのためでもあり、将来の世代のためでもあり、そしていつどこの席に押し飛ばされてもおかしくない、まぎれもない自分たち自身のためである。だったらせめて、そんな臆病さを愛したい。愛せるように臆病でいたい。


あの質問をした彼にもこの文章は見えているだろうか。

見えているとしたら、ぜひとも今日から一緒に臆病にやっていきたい。この愛すべきめんどうな世界で、ままならない私たちのままで。

つっきー

編集とかテレビっぽいことをやったあとに代理店に来ました/ライターもやってます/アニメ・漫画などいろいろ好きなオタク

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