孤独こそが寂しさの特効薬
ラーメン屋、居酒屋、カラオケ、コンサート。私はどこにだって、ひとりで出かける。そしてどこにいたって、ひとりになれるーー。ニューヨーク在住の文筆家、岡田育さんの寄稿。
このところ、東京に滞在するときは同じビジネスホテルを繰り返し利用している。まだ開業したてで設備が真新しく、接客は必要最小限に簡略化された、現代的で質素な宿だ。
大都会東京、老舗の貫禄が漂う高級ホテルから個性的なデザインホテルまで選択肢は多々あるけれど、安くて雑味がない、食パンかプレーンベーグルを素のままかじるようなこの宿が、噛めば噛むほど、じんわり居心地よい。
「ひとりの時間」と聞いて最初に思い浮かんだのは、このホテルの室内を裸足でぺたぺた歩いている感触だった。ふかふか毛足の長い洋風の絨毯ではなく、撥水性の高いキャンバス地のような床材が敷かれている。編み込まれた繊維素材のかすかな凹凸が肌に吸いつく、さっぱりとしっとりの絶妙な調合。chilewichのランチョンマットみたい、あるいは、張り替えたばかりの硬い畳にも似ている。
一歩踏み出すごとに、のびのび広がった足指から踵にかけて、足裏全面が新しい刺激に触れる。住み慣れた我が家の床ではない。かといって、窮屈な靴を履いて出歩く街中とも違う。いつ泊まっても衛生的で、抗菌効果も高そうなこの床を踏むと、チェックインと同時についつい、靴と靴下を脱ぎ捨ててしまう。備え付けの使い捨てスリッパを開封しても、あんまりちゃんと履かずに、気づけば裸足で過ごしているのだ。
■人はひとりでは生きていけない、でも
私はどこにだって、ひとりで出かける。東京で会社勤めをしていた独身時代から、ずっとそうだ。ラーメン屋へも牛丼屋へも鮨屋へも焼肉屋へもひとりで入るし、蕎麦屋の片隅で昼からひとりで飲みもする。賑やかな宴会が解散した後、酔い覚ましに始発までマンガ喫茶でひとり過ごすこともある。ひとりカラオケへ行ったらうっかり興が乗って延長料金を払ったこともある。観劇も映画も美術館もライブコンサートも、団体で行くよりは、ひとりで行ってひとりで帰り、ひとりで余韻に浸りたい。感想を語り合うだけならSNSでもできるしね。
私はどこにいたって、ひとりになれる。保護者抜きには行動できなかった子供の頃からそうだ。同行者と会話を弾ませる自信がないから、どこへ行くにもお守りのように文庫本を携えていた。満員電車ではずっとウォークマンを手放さず、学校の昼休みは机に臥せて寝たフリでやり過ごし、意識を遠く彼方へ飛ばしていた。暇さえあれば手帳を広げて日記を書いていた、今はスマホでTwitterだ。デパートの屋上、平日の公園、本屋や図書館、喫茶店や銭湯、周囲に他人がひしめいていてもひとりになれる場所が好きで、根が生えたように何時間でも座ってぼーっとしている。
ひとりで行動するのは寂しい、と言う人たちの気持ちが、まるで理解できないというのが正直な本音である。用を足すのは個室なのにわざわざ連れだってトイレに行きたがる同級生。ひとりでは気まずいという理由で食事やショッピングや旅行に誘ってくる大人。異性でも同性でもいいから誰か同伴してペアで出席しろと書かれたパーティーの招待状。なんで?
お待ち合わせですか、お連れ様はいつお越しですか、と何度も話しかけてきては、私だけです、と答えると、おやおや、としょっぱい顔で引き下がる、欧米のウェイターたち(その点、日本の飲み屋のあっさりした接客は断然おひとりさまに優しい!)。急ぎでもない着信を数日放置しておいたくらいで、愛を感じないとか責められて、それが原因で別れることになった昔の恋人。なんで?
ひとりでいいじゃん、と考えながら、浮かせた足裏がぺたぺた宙を踏んで、例のビジネスホテルの床の感触を恋しがる。人はひとりでは生きていけない、そんなことはわかっている。一時帰国の目的は公私にわたるお付き合いのため、それもわかっている。でも、人生のスケジュール表を全部、誰かと時間を共有するミーティングで埋め尽くされたら、精神のバランスが崩れてしまうだろう。
■誰にも邪魔されない孤独な時間が、襲いかかる寂しさを癒してくれる
学生時代、ひとりじゃ寂しいよぉ、を口癖にしていた友達だって、出産直後、目が離せない新生児と毎分毎秒つきっきりの生活では、軽くノイローゼに陥っていた。先輩ママから息抜きにと贈られたエステやマッサージのギフト券が何よりうれしかったという。我が子が憎いわけじゃない。ただ、目を閉じて無心で施術を受ける、自分だけの時間が欲しかったのだと。
クルマがないと死ぬ、と言った友達もいる。眠れない夜は目的地を決めずに高速をドライブするらしい。ひとり乗りバイクの感覚でコンパクトカーのハンドルを握れば、仕事の悩みも恋愛のグズグズも忘れられる。寝床にまで追いかけてくる漠然とした寂しさも不安も、アクセル踏んで加速する孤独が、すべて吹き飛ばしてくれるという。
たったひとり、誰にも邪魔されない孤独な時間だけが、襲いかかる寂しさを癒してくれる。そんな経験は私にもある。たとえば、下校中にいじめっ子にからかわれ続けた後、帰り道が分かれたところでホッと一息ついて、家族が待つ家に辿り着く前の、あらあらどうしてそんなに服が汚れちゃったの、なんてしつこく詰問される前の、短くて静かな歩行距離。やっとひとりになれた。誰かがいたんじゃ好きに息継ぎもできない。
そうやって、人間関係のしがらみに溺れぬよう、吸って吐いてを繰り返すと、人生はソロ活動となり、毎日がひとり旅になる。仲間と一緒の旅は頼もしく、親睦も深まるけれど、ひとりきりの冒険で味わうスリルや興奮、五感をフル稼働させて浴びるあの圧倒的な情報量とは比べるべくもない。みんなと爆笑しながら撮った集合写真と同じくらい、ひとりでファインダーを覗き込んでシャッターを切った風景写真、自分自身を写すようなその数秒間の孤独も、大切な思い出となるのだ。
ひとりで寂しくないの? と訊かれたら、ひとりのほうが寂しくない、と答える。私にとって寂しさとは、みんなの輪の中で感じる不安感情のことだ。他人の顔色を窺いながら、他人と歩調を合わせて歩きながら、その中で空回りするときにこそ自覚する、対人関係由来の欠落のことだ。入念に計画を立てて優先順位を高め、自分自身の手で作り出した、まっさらで貴重な自由、そして孤独は、ちっとも怖くない。どれだけ食べても苦くない。
■私の身体は私ひとりの、私だけの乗り物だ
数カ月後、また東京出張がある。今は地球の裏側ニューヨークから、次に皆さんとお目にかかるのがとっても楽しみです、と関係各位へメールを書き送っている。滞在中の用事の大半が、対面の打ち合わせだ。でも本当の楽しみは人付き合いだけではない。
誰がアイロンをかけたのかも知らないパリッパリのシーツが張られた、いつもとは寝心地の違うベッドを独占してたっぷり睡眠をとる、ひとりの夜。その延長線上にあって、まったく新しい1日が始まる前の、ひとりの早朝。前の晩にコンビニで買った初めて食べる味のスイーツをつまみ、自分では絶対買わないデザインのデジタル時計で時刻を気にしながら、自宅でなら散らかしっぱなしにする荷物を旅先ならではの几帳面さで整理して、ほとんど別人に生まれ変わった気分で、予定を確認する。
もう数時間したらばっちり身支度と社会性を整えて、なけなしの対人コミュニケーション能力をフル稼働させなくちゃいけない。でも今はまだもうちょっとだけ、いられるだけ部屋にいよう。ひとりで。そうしていると時折、からっぽの脳に天啓が降りてきたりする。長く悩んでいたことを、いつになく素早く決断できたりもする。
日常の延長線上にある非日常、家にいるだけでも、外で働くだけでも得られない、あの空白の時間を大切にしたい。赤子を預けて行くエステ、眠れぬ夜の深夜ドライブ、息抜きに駆け込むカフェ、衝動的なひとり旅、5分の散歩でもいい。
「私の身体は私ひとりの、私だけの乗り物だ」と実感できる瞬間こそが、しんどい寂しさを癒して埋める、何よりの特効薬だと思う。足裏がまた、あの床の感触ををぺたぺた探し回る。
ひとりの出張旅、ひとりの朝時間。寂しいか? 寂しくないよ。楽しみ、楽しみ。
文筆家。東京出身、NY在住。著作『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』『天国飯と地獄耳』『40歳までにコレをやめる』。