ソロ活の始まりは自虐だった。私が「みんなでワイワイ=正義」の呪いから解き放たれるまで
「ひとり=みじめ」と思い込んでいた高校生が、自虐時代を経て、自他共に認める「ひとり好き」になるまで。『ソロ活女子のススメ』『「ぼっち」の歩き方』などの著書を持つエッセイスト 朝井麻由美さんの寄稿。
幼い頃から競争が苦手だった。自分が競争にさらされるのも、人の競争を見るのも、あまり好きではなかった。今思えば、である。
数年前、AKB総選挙が大流行していた頃、正体不明のしんどさを抱いていた。見ちゃうけど、なぜかしんどい。しんどい理由を言語化できてはいなかったが、当時を思い出すとあまり楽しい気持ちにはなれないのは確かだ。自分もエンターテイメントを享受するひとりの視聴者として消費していたくせに。
ブームに伴い、AKBに続けと言わんばかりの地下アイドルが大増殖してもいた。時にはリツイートの数で、時にはチェキの枚数で、競わされ、ランキングをつけられる彼女たちの姿を見て、私はすり減っていた。
「頑張る女の子たちは美しい」、なんて馬鹿言わないでほしい。ファンのご機嫌を伺って、必要とあらば自分を曲げて、「女の戦い」とか言われて、嫉妬や不安や悔しさにまみれて。これの何が美しいんだ。
「人目を気にする」の究極形である彼女たちは、頑張る美しさよりも、息苦しさのほうが上回っているように見えた。1位の子も、最下位の子も、悲痛なお願いばかりしていて、誰も楽しくなさそうだった。
念のため言っておくと、アイドルという職業自体を否定するつもりはないし、ファンからするとまた違った見え方になるのかもしれない。好きなアイドルを応援すること自体はむしろ尊いものだと思っている。外野から見えていた景色、という話なので、誤解しないでいただけたらうれしい。
■誰とも関わりたくない。でも、「みじめ」と思われたくない
10代を共学校で過ごした自分に薄っすら重ねていたんじゃないかと思う。残念ながら今の日本には、女性というだけで「モテ」だの「かわいい」だの「恋愛」だのといった土俵に勝手に上げられるようなところがある。
男性もそうなのかもしれないが、その頻度は女性のほうが間違いなく多いだろう。望んでもないのにA5ランク、A4ランク、と品評されるわけだ。牛かよ。たとえ肉牛になる気は毛頭ないとしてもだ。ずいぶん勝手な話だと思う。
高校生の頃、生徒の間で秘密裏に行われるミスコンやミスターコンがあった。初夏と冬の年2回行われ、その時期になると教室内に小さなアンケート用紙が回ってくる。女子はその紙にクラスで一番イケメンだと思う男性を、男子はクラスで一番かわいいと思う女性を、書かされるわけだ。
学校公認の大々的な行事ではないため、実行委員がいるわけではないのだが、どういう仕組みだったのか毎年自主的に誰かが始めていた。イヤなら参加しなければいい、と今なら思えるけれど、同調圧力の中で生きるしがない高校生にそれは難しい相談だった。というか、当時はそれを「イヤ」と認識すらできていなかったような気がする。“そういうもの”だと思っていた。
アンケート回収から2週間後くらいに、集計結果が書かれた冊子が作られ、全クラスのランキングと票数が明示される。
エグいな、と思った。
通常、ミスコンやミスターコンは、出たいと思った人だけがエントリーする仕組みである。高校の頃のそれは、全員が自動エントリーなのだ。望んでもないのに、強制的にランキングをつけられる。エグい。
そのランキングには、単純な容姿の良さはもちろん、中には友達の多さやコミュニケーション能力によって上位にランクインしているような人もいた。集計結果がまとめられたたった数ページの冊子は、教室という小さな世界で発言力や影響力、上下関係を可視化するには充分だった。
望んでもいないのに誰かから品定めされたり、競争したりしなければならなかったりするなら、誰とも関わりたくない。ひとりでいたい。でも、ひとりでいると「みじめ」だと思われる。どうしよう。
■私は「リア充になりたい」のか?
私は今、「ひとりが好きな人」と認識されていて、『ソロ活女子のススメ』という本を出したり「ソロ活」についてのコラムをあちこちで書いたりしているわけだけれど、その始まりは紛れもなく、自虐だった。
高校を卒業して大学に進学してからは、クラスも修学旅行も全員参加の文化祭もなくなり、ひとりの時間が物理的に増えた。
歳を重ねるにつれ、ラーメンを食べ、焼肉へ行き、行動の幅を広げていったものの、頭の片隅に自虐的な気持ちがあったのは間違いない。コラムを書くときも、ぼっちな私をさあ笑え、という目線から文章を書いていた。
でも、徐々に違和感を抱くようになる。きっかけは、同じく「ぼっち」を自認する人のひとことだった。
ある日、私と同じく「ぼっちだ」という人が「リア充ってムカつきますよね!」と言ってきた。数年前は「リア充」「非リア充(非リア)」という言葉が流行っていて、その後、「パリピ」や「陽キャ」と言葉を変えていく。それぞれ微妙にニュアンスが異なるのかもしれないが、一連の言葉がざっくりと「明るくてみんなでワイワイしている人たち」を指すのは間違いないだろう(「恋人がいること」を指す場合もあるが、ここでは置いておく)。
特に「リア充/非リア充」が使われていた時代、しばしば対立構造で扱われがちだった。いや、もしかしたら、対立構造にしていたのは「非リア充」側の人だけなのかもしれないけど。「リア充ってムカつきますよね!」の人は、「僕はリア充に憧れていて、なりたい。だけどなれていないから、妬んでいる」と自嘲的に語った。
これを聞いて、私は考え込んでしまった。私の中には、憧れも妬みも、リア充になりたい気持ちも、ないような気がする。
そもそも、私は「ひとりでいること」を悪だと捉えているのだろうか……?
たしかに私は、学校の教室という集団のなかで、ひとりでいたらいけないと思っていたし、仲間外れにならないように思ってもないことを言って必死で合わせていた。共感しなきゃ、と懸命になっていた。みんな同じ。明るくワイワイ盛り上がることだけが“正しい”。
でも同時に、それが嫌でたまらなかった。これが好き・こうしたい・私はこう思う、をまっすぐに表せない人間関係なんて、ただ「ひとりぼっちにならないための」人間関係なんて、虚無でしかないじゃないか。相手のことを好きゆえの気遣いは大事だ。けれど、気遣いも行き過ぎると、ただの嘘になる。それは自分に嘘をついてまで、続けたい人間関係なのだろうか?
ミスコンもミスターコンも参加したくなかったし、文化祭は何が感動するのかわからなかったし、決められた時間に決められた場所へ班行動する修学旅行はひとつも楽しくなかった。家でひとりで読書してゲームしてピアノを弾く時間が好きだったのに、学校が楽しいふりをして、共感しているふりをした。そうしなければいけない、と思っていたから。
私は強くない。強くないから、「ソロ活」というエクスキューズが必要だった。自虐で身を守り、自分を正当化しようとしてソロ活、ソロ活、と言い続けた。でも、「人に囲まれていることが正しい」「ひとりでいるのはダメ」なんて、そんなの誰が決めたんだ。
「ひとりはみじめだ。人の輪に入らないのはよくないことだ」と、ほかでもない私自身が一番思っていたのだ。
自虐は、多くの人が良しとする“物差し”から外れた者たちにとっての身を守る手段だった。友達が多いほうがえらい物差し、恋人がいるほうがえらい物差し、若いかどうかの物差し、美人のほうがえらい物差し……。
誰もが疑わなかった物差しは、呪いとなって巻き付く。私は「友達が多いほうが偉い物差し」の呪いから身を守るために、先に自虐することで、傷つかないようにしていたのだ。
「リア充ってムカつきますよね!」発言をきっかけに、私はようやく高校時代の「友達が多い人気者こそ正義」という呪いから、徐々にではあるが解き放たれることになった。
「みんなでワイワイ=良い/ひとり=ダメ」なことがあってたまるか。当たり前の顔して鎮座しているそういう“常識”、呪い、物差し、全部全部メッタメタにぶち壊されていけばいいと今は思う。
■ソロ活は、自分に嘘をつかない訓練
最後に、ソロ活を続けてきたことで起こったちょっとした変化の話をしたい。人といるのも楽しいと思えることが昔よりも格段に増えたのである。なんだか矛盾しているようだけど。
数は少なくても、ごくたまに、いたいときに、いたい人とだけ一緒に過ごすのは、ずいぶん気が楽だと知った。無理をしないと縁が切れる相手は、それまでの相手だ。「友達100人できるかな」とか「クラスみんなで仲良く」とか言われて育ってきたけど、そんなの嘘だよ。友達の適正人数も、適切な距離感も、人によって全然違う。
ほうっておくと人はすぐ自分に嘘をつく。
ひとりの時間、好きなことをして、好きな場所に行き、好きなものを食べ、と今したいこと何なのかを何度も自分に問いかけた。自分の思うままに動き、無理をせず、自分に嘘をつかない訓練を、私は知らず知らずのうちにしていたのかもしれない。
Text/朝井麻由美(@moyomoyomoyo)
ライター・コラムニスト。著書に『ソロ活女子のススメ』(大和書房)、『「ぼっち」の歩き方』(PHP)、『ひとりっ子の頭ん中』(KADOKAWA)。執筆テーマはソロ活、人見知り、一人旅、カルチャー。MOTHER2とウニが好き。『二軒目どうする?』(テレビ東京系)準レギュラー出演中。
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