「選挙速報」をつまみに酒を飲んでいた頃の話【偏屈女のやっかいな日々】
どんなプロセスを経て好きになったのかわからないけど、「とにかく○○が好き」というものがある。好きになったら最後、なかなか抜け出せない沼のようで、沈んでいくことに気持ち良さすら感じる。好きという感情がより濃密になり、周囲からは理解されないことも多い。けれど、そんな「好き」があった方が人生は楽しかったりするのかもしれない。
突然な質問なのだけれど、あなたは、人生の中で一度でも、赤の他人が持っているネクタイのすべてのバリエーションを把握したことがあるだろうか。パートナーや配偶者、親しい友人ではなく、赤の他人の、だ。
私はある。
2010年の春頃からしばらくのあいだ、NHKの武田真一(たけた・しんいち)アナウンサーが持っているネクタイを(おそらく)すべて把握していた。なぜそれがわかるかというと、約2年にわたって、彼が当時出演していた夜のニュース番組、「ニュース7」を毎日録画して見続けていたからだ。
■武田アナとの出会いは突然に
2010年、高校3年生だった私は、受験勉強をしていなかった。
通っていた高校は3年生になると午後の授業のほとんどが選択制の講習になるシステムで、「一切の授業を選択しない」という大胆な選択をした私は、予備校にも通わず、家で勉強もせず、ただただ暇を持て余していた。
当然、同世代の友人はちゃんと勉強しているので誰もかまってくれず、自ずとひとりで過ごす時間が増えた。好きな文章を書いたり、ライブに行ったりはちょくちょくしていたが、それさえもし尽くしてしまって、長く眠ることにも飽きると、テレビを見る時間が増えた。
いつもどおり夕方頃からぼんやりテレビを見ていたある平日、たまたまついていた「ニュース7」を見ていたら、「このニュース読んでるアナウンサー、すごいいい声だな」と突然思った。
そこからニュース7の平日担当が武田真一アナだと認識するまでの過程は正直に言ってあまり覚えていないが、夕食の準備をしていた母親に「この人誰だっけ」と聞いたら、「そんなことはどうでもいいから勉強しろ」とブチギレられたことだけはハッキリと記憶している。
■人情味あふれる語り口と、美しい発音
武田アナのことをすこしだけ紹介する。
彼は1967年生まれのNHKのアナウンサー(現在はエグゼクティブ・アナウンサーという肩書きがついている)で、1999年から2006年までのあいだはNHKの正午のニュースを担当し、沖縄局への異動を経験後、2008年から「ニュース7」のメインキャスターとして平日19時のニュースを担当していた。
武田アナ、と言われてその顔が浮かばなくても、「平日の夜にニュースを読んでいた穏やかそうな雰囲気のアナウンサー」と言われれば、ぼんやりと彼のことを思い出す人も多いのではないだろうか。実際に彼は「NHKの顔」と呼ばれることも多く、アナウンサーの人気ランキングの中でも長年上位を維持し続けている看板アナだ。現在は「クローズアップ現代+」のメインキャスターとして活躍している。
そんな武田アナのなによりの魅力は、人情派キャスターとも言われる所以の温かみのある語り口とキャラクターだ。
低すぎず、高すぎもしない絶妙なトーンで彼が読むニュースはホッとするような柔らかさがあって聞き取りやすく、明るいニュースのあとにはにこやかな顔を、凄惨なニュースのあとには眉間に皺を寄せた悲しげな顔をしてしまう表情の豊かさも愛らしい。さらに言うと、鼻濁音(鼻に抜けて発音する濁音)の発音も飛び抜けて綺麗だ。
……もちろん、武田アナにハマり始めた当初から前述したようなことを考えていたわけではないが、「なんかいい声の人だな」という気持ちがしだいに肥大していき、気がつけば私の生活には、19時になると自動的にニュース7にチャンネルを合わせる、というルーティンが組み込まれていた。
面接や作文がメインの八百長のような大学受験をなんとか済ませ、高校3年生の春休みがくる頃には、私は立派な武田アナオタクとして仕上がっていた。
受験を終えて卒業旅行やパーティーを計画する友人たちをよそに、「ちょっと予定(ニュース7)があって……」といそいそと19時前に家に帰る生活を続けていると、誰からも遊びに誘われなくなった。
しかし、現実で失った友人は、オンラインでつくれる。
私は当時まだ賑わっていたミクシィで武田アナコミュニティを見つけ、即座にそこに入った。武田アナコミュでは、毎日ニュース7の時間になると、
「たけたん、今日は赤のネクタイですね♪」
「ちょっと声がかすれ気味なのが気になります、風邪でしょうか(;_;)」
といったコメントがトピック上に飛び交う。
「早くたけたんの手持ちのネクタイをすべて覚えてコミュニティに馴染まなくては」と考えた私は、ますます熱心にニュース7を見るようになった。
■「為替と株の値動き」の楽しみ方
もしかすると、NHKのニュースなんてなにが面白いのかわからない、と思う方もいるかもしれない。
たしかに、民放局ほどニュース番組でのアナウンサーの振る舞いの自由度(VTR明けのリアクションや、ニュースに対するひと言コメントの有無など)が高くないNHKでは、その分、アナウンサーのちょっとした表情や言葉から「違い」を読み取る想像力が要求される。
しかし、これが思いのほか楽しいのだ。
たとえば、アナウンサーが為替と株の値動きを伝えているとき、おおよそ5日に1回くらいの割合で、円相場を読みあげている最中に値が動いてしまうことがある。
そうすると、アナウンサーは「102円36せ……いま変わりました。102円50銭で取引されています」と言い直すことになるのだが、ここにそのアナウンサーの個性が現れる。
顔色ひとつ変えずに「いま変わって、102円に……」と言う人もいれば、ちょっと慌てたように「あっ! あ、いま変わりました。102円に……」と言う人もいて、見ているとだんだんそのアナウンサーのキャラクターがわかってくる(ような気になる)のだ。
この「いま変わりました」はNHKアナクラスタのあいだでもしばしば話題になる現象で、ミクシィやTwitter上では「いまかわ」という略称で親しまれている。
ディズニーランドのキャストの追っかけをしている友人が、かつて「ドナ○ドにどのキャストが入ってるか、足首の細さでわかるんだよね」と得意げに言っていたことがあるが、たぶん、NHKアナウンサーのニュースを見続けることは、それに近い楽しみ方なのではないかと思う。
■選挙特番はフェス
武田アナを熱心に追いかけていた当時、いちばん楽しく、かつ忙しかったのは、なんと言っても選挙の日だった。武田アナはベテランなので、ニュース7に加えて緊急時のニュースや選挙速報を担当することが多いのだ。統一地方選挙、衆議院議員総選挙などにも当然駆り出されて、しばしば特番を担当した。
普段は30分しか見られないアナウンサーの姿が長時間にわたって見られる上、中継映像やゲストの解説員とのやりとりなどイレギュラーな展開も多い選挙特番は、言うなればフェスだ。私は選挙特番があるたび、早々に帰宅してはハイボールや軽めのつまみをせっせと用意して、武田アナの速報を肴に酒盛りをした。
刻一刻と変わる得票状況に耳を傾けながら、「ああ、たけたん今日も雑味のないいい声だなあ」とビーフジャーキーをかじっていた夜は、いま思い返しても本当に幸せそのものだった。
ニュース7を録画しながら熱心に見続ける日々は、2012年の冬頃に突如として終わりを迎えた。決して武田アナに飽きたとか嫌いになったわけではなく、単に録画用のハードディスクがいっぱいになってしまったのだ。
もちろん、それまでもいっぱいになりかけたことは何度かあり、そのたびにせっせと映像をDVDに焼いて保存していたのだが、「いつまで録り続けるんだろう……」とふと冷静になった瞬間があって、さすがに潮時かなと思った。
いまも武田アナのことは変わらずに大好きだし応援しているけれど、彼が髪を切るおおよその周期まで把握していたあの日々のことは、恐がられそうであまり人に話したことがない。
果たしてこんな生き方をしていていいのかと自分を疑うこともあるが、愛とは大きな心だとマザー・テレサも言ってたし、まあいいんじゃないかな、とも思う。
illust/兎村彩野(@to2kaku)
1992年生まれ、ライター。室内が好き。共著に『でも、ふりかえれば甘ったるく』(PAPER PAPER)。