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「文字起こしの日々」の思い出

夏の終わりに読んでもらいたいエッセイが文筆家・生湯葉シホさんより届きました。DRESS読者のみなさまに、すこしでも楽しんでいただけますとうれしいです。それでは、ご覧ください。生湯葉シホで「『文字起こしの日々』の思い出」です。

「文字起こしの日々」の思い出

文字起こし、という言葉にどのくらい一般的な知名度があるものかがいまいちわからないのですが、近ごろはテレビやラジオに出演された方の発言を(局が公式で)文字起こしするブログなども増えてきているので、案外どなたの生活にも馴染んでいるものなのかもしれないなと想像しています。文字起こしというのは、レコーダーやビデオに録音・録画された音声を聞き取って文章のかたちにする、あの行為のことです。

会議の議事録をとった経験のある方は少なくないと思いますが、仕事の一環として日常的に文字起こしをする、というのはだいぶ限られた職種の人のような気がします。そのうちのひとつが私のようなライター(インタビュアー)です。私たちは仕事でインタビューをする際、許可を得てお相手の発言を録音しておき、その録音データを文字に起こすところから仕事をはじめることが多いです。人のしゃべり言葉というのはかなり散漫ですから、たとえばこのエッセイの最初の段落であれば、

“──文字起こしってなんていうんですかね。わりと知られてますかね。

発言者:んー、でも最近けっこう起こしのブログとかあるじゃないですか。局のあの、公式のやつ。個人のあの、違法のやつも多いけど。だからわりとな気がする……。なんかいわゆるテープとか、いまだとZoomとかに録ったやつを文章にするあれですよね。つまりね。”


というような言葉がもともとの発言であったことが推測され、「んー」とか「あの」とか「なんか」といった意味を成さない言葉も一つひとつ拾いあげるこのスタイルの文字起こしは、素起こしと呼ばれたりもします。「んー」とか「あの」を削ることを俗にケバ取りといい、実際に読者が目にするインタビュー記事では、ライターや編集者がもう何段階か手を入れて、より可読性を高めたものになっていることが多いです。

余談ですが、しゃべり言葉に「んー」とか「あの」、いわばケバがほとんど出ない方というのがときどきいらっしゃり、文字起こしをしていて驚くことがあります。これまでに私がお話しした方のなかだと、アナウンサーの方や講師の方、それに校正者の方に比較的そういった傾向があり、お仕事柄なのかしら、おもしろいなと感じます。

■定時ニュースの文字起こしからはじまって

……と、長くなりましたがここまでは一般的な「文字起こし」についての話で、ここから先は仕事などとはいっさい関係のない、私個人の体験の話をしたいと思います。私にはこの文字起こしなるものに、取り憑かれたようになっていた時期があります。

きっかけがなんだったのか正確には思い出せませんが、そのひとつにNHKの武田真一アナウンサーの存在があったことはたしかです。以前この連載でも書いたのですが、私は高校生のときにNHKの『ニュース7』を通じて武田アナウンサーのファンになり、一時期、彼が出演する平日の『ニュース7』を5日分録画しては夜中にせっせと見かえす日々を送っていました。とくに熱中していたのは、1日の為替と株の値動きをアナウンサーが読みあげている最中に時折訪れる「いま(値が)変わりました」、通称「いまかわ」です。

NHKの定時ニュースは1日に複数回放送されるので、ニュース原稿は(その時間帯に大きなニュースが入ってこない限り)朝と昼、夜とで同じものが読みあげられることが多いのですが、そのなかで唯一、なにが起こるかわからないスリルを楽しめるのがこの「いまかわ」でした。私は数日に一度しかやってこない「いまかわ」の瞬間を味わい、深く記憶しておくために、「いまかわ」が起きた日は録画映像のなかのその数分間をパソコンで文字起こしし、テキストファイルとして保存しておくことにしたのです。

文字起こしをはじめてみると、ただ「いま変わりました」だと思っていたその瞬間は、実際には「アッいま、いま変わりました」であったり、「いま……変わりました」であったり、「(ちょっとハッとして)いま変わりました」であったりすることがわかってきました。Wordのなかに貯まっていく無数の「いまかわ」の欠片を眺めていると、その発音を頭のなかで完璧に再現することは叶わなくても、アナウンサーの声の響きや表情、スタジオの背景セットを含めた場の空気感とも呼ぶべきものが命を吹きかえし、再生されていくのを感じました。

歴史的なニュースでもちょっと気の利いたコメントでもなんでもない、本来なら誰の記憶にもとどまらないはずの“たしかにあった一瞬”が、いま自分の手のなかで文字となって記録されていることに、得体の知れない興奮を感じたのを覚えています。

もともとテレビドラマの脚本に興味があったこともあり、進学先の大学では脚本研究・執筆をするゼミに入りました。ドラマのシナリオというものは、よほどの人気作以外は公開されたり書籍化されたりしないものです。そのため、私は好きなドラマを見つけると録画しては熱心に文字起こしを続け、脚本の分析をしていたのですが、いつの間にかその対象はドキュメンタリーやバラエティ番組にまで広がり(そもそもはじまりがニュース番組だったのだから自然なことです)、大学を卒業するころには、そうか、私は人が無意識に発してしまうようななにげないせりふや所作を“記録”することがほんとうに好きなのだ、という自覚を持つに至りました。

■日常生活でもしてみたらどうなるのだろう

あるとき、これを日常生活でもしてみたらどうなるのだろう、とふと思いました。読みながらヒヤヒヤされている方がいるかもしれないので先に書いておくと、合意のない録音の類(というのはつまり盗聴)はもちろんしていません。私は当時の恋人に、「もしよければなんでもない会話を録音させてほしいのだけどどうだろうか」と打診しました。相手はしばらく戸惑っていましたが、「よくわからないが、犯罪に使わないことだけはわかったからよかろう」と了承してくれ、私はそれから30分ほどのシーンを録音し、家に帰ってから粛々と文字起こししました。

プライベートなことなので、子細な内容は当然ですがここには書きません。ただ、初めて会話を録音させてもらったその日は雨でした。会話の端々に外の雨の音が混じり、私はその音をどう起こそうか非常に迷いました。単に「(雨の音)」と書くのもなんだか芸がないし、音を「ざあざあ」や「ぽつぽつ」といった耳馴染みのいい擬音語に変換するのもあまり気が進まなくて、いっそのこと音階にしてしまおう、と途中で思い立ち、「D」とか「C#」とか書きはじめたらなんだか楽しくなってきたのを覚えています。相手がちょっと笑ったときに、その音がC(ド)であることに気づき、そうか、この人はドで笑うんだと思ったりもしました。

当時、文字起こしのことは恋人と私のあいだでだけ通用するささやかなごっこ遊びのようなもので、人に言ったら気味悪がられるかもという認識があったので、誰にも話したことはありませんでした。けれどいちどだけ、知人とLINEしていて冗談のつもりでこの話をしたときに、ちょっと驚くような返信がきたことがあります。

知人は、「よくわかるよ、僕は色でそれをしてるから」と言いました。聞けば、彼は写真を撮るのが趣味で、ソフトを使って写真のレタッチをしているうちに、「色」に並々ならぬ思い入れがあることに気づいたのだそうです。知人はパートナーの写真を撮っては、その日相手が着ていた服や背景に写っているもののカラーコードを調べ(もちろん合意の上で)、コードになった色を見てうっとりしていると言いました。

私はあまりのことに笑ってしまいつつも、感激していました。私が録音データのなかの「ええと」「あの」とか、一人称が「わたくし」から「わたし」にわずかに揺らぐ瞬間に喜びを感じているとき、この人はパートナーのコートの薄紫色を見て、「そうかあ、#9D8D98か、いい色だなあ」と思っているのだ、と。本来はすれ違うはずのない衛星の軌道が重なった奇跡的な一瞬を目にしてしまったようで、私はしずかに喜びに震え、ああ、この瞬間が文字起こしできたらなあ! と心から思いました。けれど、LINEのやりとりでは残念ながらそれが叶わないので、さしあたりスクリーンショットを1枚だけ撮りました。

■このままでは日々が「文字起こされ」になってしまう

私がその「文字起こしの日々」とも言うべき熱狂的な日々から脱出したのは、いま思えばかなり自覚的なことでした。趣味の文字起こしを続けるうちに、だんだんと、起こされる対象であるはずの「会話」と起こす「文字」との主従関係が逆転しているような感覚が増していってしまったのです。つまり、ドラマを見たりバラエティを見たり、人と会話を交わしたりしていても、「あー、早く家に帰って文字起こししたいな」としか思わなくなっていき、そのことに強い危機感を覚えたのでした。

このままでは聞こえる音のすべてが文字起こしのための素材、言うなれば「文字起こされ」にいずれなってしまう、と思いました。なにげない瞬間を結晶化したいという私の欲求は、逆に言えば、その瞬間をリアルタイムで体感することへの軽視につながっているのではないかと感じ、あるときからぐっと堪えて、文字起こしをすることも、したいと考えることも極力やめよう、と試みました。

すると、どこか1本を引っ張ったらすべての絡まりがほぐれる手品の紐のように文字起こしへの執着がするすると解けていくのを感じ、いつの間にか私と文字起こしとの距離はごくふつうの、すれ違ったら挨拶はする近所の人、程度の健全な関係になっていたのでした。

***

このエッセイを書くにあたって、担当編集氏から「もしもなにか、たとえば読者にとっての教訓のようなものが、ほんのすこしでもあるといいのですが……でも、なければないで大丈夫です」と困惑気味に伝えられています。たしかに、そうですよね。

私から言える教訓めいたことはなにもありませんが、しいて言えば、人のなかには時折その人に自身しか住むことのできない小宇宙のようなものが生まれ、そこだけで通用する世界の秩序があるのかもしれないな、と考えることがあります。少なくとも私にとっては、文字起こしの日々はまちがいなくそれだったように思います。あのエネルギーがいまも世界のどこかの誰かのなかで人知れず生まれているのだなと想像するとすこしだけ気持ちが明るくなるのですが、みなさんはいかがですか?

『偏屈女のやっかいな日々』の連載一覧はこちらから

生湯葉 シホ

1992年生まれ、ライター。室内が好き。共著に『でも、ふりかえれば甘ったるく』(PAPER PAPER)。

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