ダラダラする日もていねいに暮らす日も自分は自分。そう思うと楽になった
いわゆる「ていねいなくらし」に憧れる気持ちがあるものの、現実はそうはいかない。ていねいとは程遠い時間を過ごすこともある。でも、そんな理想と現実との差を受け入れられるようになったのは、ダラダラするときの自分も、ていねいに過ごすときの自分も、同じ自分だし、好きなように両者を行き来すれば良いのだと気づいたから。
■「ていねいなくらし」に憧れた子ども時代
中学生の頃から、「ていねいなくらし」にあこがれていた。
図書館で「イギリスのグランマに学ぶ、シンプルでていねいなくらし」のような本を借りてきては、スコーンを焼いてポットでお茶を淹れてみたり、晴れた日には自分の部屋のカーテンを手洗いしてみたり。
小規模ながらも、自分の生活を整えていくことへの目覚めは、比較的早い方だったと思う。
14歳当時の計画では、大人になった私はこぢんまりとした部屋を借りて、質素ながらも清潔で、自分や親しい人を労る日々を送ることになっていた。
具体的な空想の内容としては、こんな感じだ。
・仕事もあって毎日きちんと自炊をするのは難しいだろうから、週末に作り置きをすることにしよう。メニューはやっぱり、野菜多めの和食中心かな。
・夜はいろいろな入浴剤を試しながらお風呂でゆっくりして、翌朝スッキリ目覚めるためにも早寝を習慣にしよう。
・若さに固執するのは嫌だけれど、肌や髪のケアは地道に積み重ねていって、年相応の美しい人でありたい。“疲れ果てたバリキャリ“には絶対にならないぞ!
子どものときからずっと働き続けたいとは考えていたので、仕事と「ていねいなくらし」の両立を実現させる、完璧な計画を立てたつもりだった。
■怠惰で雑な自分が好きじゃなかった
しかし、いざ大人になり働き始めてみると、現実はそう甘くなかった。
なかでも酷い例をいくつか列挙してみよう。
・疲れると味覚が鈍るのか、月に1回は「野菜中心の和食なんてぜんぜん嬉しくない、ケチャップまみれのマックのポテトじゃないとこの心の穴は癒せない!」という日がある。
・平日の帰宅後、お風呂を洗って沸かすのはけっこう面倒くさい。それどころか、お風呂上りのスキンケアやヘアケアの手間を思うと、お風呂に入ることすら億劫。
・特に理由はないが、なぜかスマホをいじっていたら日付が変わっていた。
もちろん以前と変わらず「ていねいなくらし」は素敵だと思っているし、余裕のある日は自炊をしたり、長風呂を楽しんでから早寝早起きをすることもある。
とはいえ、かつての私が思い描いていた理想の大人像とはかけ離れた生活を送っていることは確かだ。
なにより予想外だったのは、「ていねいなくらし」なんてどうでもいいと思う瞬間が多々あるということ。
上記のポテトを食べたい衝動に駆られているときもそうだし、深夜までスマホをいじりながら寝落ちするのは、正直なところ何物にも代え難い幸せだ。
しかし、そういった誘惑に負けてしまう瞬間にはどうしても罪悪感がつきもの。本当は「ていねいなくらし」に憧れがあるのに、怠惰で雑な生活を送ってしまう自分を自己嫌悪してしまう。
人生を楽しくするための「ていねいなくらし」のはずが、いつの間にかその(私にとっては)高すぎる理想が、重荷だと感じるようになっていた。
■自分のいろいろな面を認めると、心が軽くなる
そんな理想と現実の差を受け入れられるようになってきたのは、つい最近のこと。
受け入れるというよりは、考え方を変えるのに近いかもしれない。
自分にもいろいろな面があり、どの面が出てくるかはその時々で違うということを、素直に受け止められるようになってきたのだ。
ヘルシーで凝った料理を作り、髪の毛の先から足のネイルまでを完璧に整える自分と、深夜に帰宅してそのままソファで眠り、ジャンクフードを選ぶ自分はまぎれもなく同一人物。
そのどちらが正しいということもなく、その時々の気分に身を任せれば良い。
毎食ジャンクフードを食べ続けることと同様に、今すぐ寝たいのに時間のかかるスキンケアをしないといけないことも、私にとっては不幸であることに変わりないのだから。
目指すべきは、どんなときも「ていねいなくらし」なのではなく、自分がいろいろな面を持っている事実を認めて、臨機応変にいいと思うものを選ぶ、「自由で気楽な生活」なのかもしれない。
そう思うと、なんだか心がふっと軽くなる。
自分を型にはめずに、どんな自分も受け入れて、素直な心の声を聴きながら生きていきたいと思う。
Photo/池田博美(@hiromi_ike)