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無知は強みだし、行動が全て。東京はやりたいことをやって受け入れてくれる街

東京はあなたにとってどんな街ですか? 8月特集「東京の君へ」では、東京を舞台に活動を広げる”表現者”たちに、上京にまつわるエピソードをご紹介。もしもこの街でチャンスを掴みたいとき、私たちはどうすれば良いのでしょうか――。今回はそんな答えの見えない質問に、ヒントをくれるひとりの男性にお話しを伺いました。

無知は強みだし、行動が全て。東京はやりたいことをやって受け入れてくれる街

カメラマンとして20 年以上も広告・雑誌・CM映像制作の第一線で活躍しながら、自らの作品も精力的に発表し続けている。一方、映画監督としても、『白河夜船』などの作品で高い評価を得る若木信吾さん。

若木さんは、独自のルートとストーリーを辿って上京します。「もともと東京に憧れはなかった」と語る彼は、なぜ、いかにして東京へとたどり着いたのか――。

クリエイター志望者はもちろん、東京で夢を叶えたい人も必読です。

■東京に憧れなんてなかった

――若木さんは静岡県・浜松市出身だそうですが、上京はいつ頃だったんですか?

「東京で仕事を始めたのは、25、26歳の頃ですけど、本格的に東京を拠点にしたのは29歳の頃ですね」


――上京する年齢としては、決して早くはないですね。

「高校卒業後、アメリカの大学に行ったんです。中学生のとき、写真をやり始めて、もっと学び深めたいと思うようになって。大学進学を考える時期、どこで学べるのかを調べてみたら、当時の東京では日芸(日本大学芸術学部)くらいしかなかった。

選択肢が少ないなと思っていたときに同世代の間で留学ブームが始まったんです。浜松の書店にも留学ジャーナルみたいな雑誌が並ぶようになって。それを読み込んでいるうちに、『こんな選択肢もあるのか』と。正直、東京に憧れはありませんでした。高校時代、ブルース・ウェーバーの写真展を観に行くために上京したりしていたけれど、人が多いなぁ……という印象くらいしかなくて。

憧れていた写真家もリチャード・アヴェドンとか海外の人ばかりだったから、『アメリカの大学に行く!』という選択肢は、思いついた瞬間から揺るぎないものになりました」

若木さんはニューヨーク州ロチェスター工科大学写真学科で学び、’94年に卒業。卒業後も帰国する意思はなく、ニューヨークを拠点に活躍するトップカメラマンを夢見て、同大学同期の友達とともにマンハッタンで部屋を借りて共同生活を営みながら、バイトと営業に明け暮れる日々を送るようになったという。

「海外の一流誌でファッション写真を撮るのが夢だったし、絶対にここに残ろうと思っていました。でも、ニューヨークは、石を投げれば、そんなクリエイター志望の若者に当たるような国だから、そううまくいくわけもなく(笑)。あの頃は、絵に描いたような貧乏でしたね。日本でいう100円ショップ的な店、”1ドルショップ”でパスタを買って塩だけで食べたり。バイト代が入っても、欲しい写真集を買うのに使っていました」

■ニューヨークで無名でも、東京ではいきなりスター⁉

夢見る貧乏時代は数年続いたが、それでも、東京に帰るつもりはなかった。

「あくまでも拠点はニューヨークにこだわっていたました。でもあるとき、一時帰国する直前にニューヨークの本屋で『デザインの現場』という日本の雑誌を見つけて。いわば、クリエイターズファイルのようなものなんですけど。そこには、当時から著名な編集者の後藤繁雄さんとか、林文浩さんが紹介されていて。今では考えられないことですけど、彼らの家の電話番号まで載っていた(笑)。

それを見て営業してみようと思いついて、片っぱしから電話をかけて会いに行ったんです。自分の撮影した作品を1冊のブックにして、それを持って売り込みに回った。ニューヨークでは当たり前のやり方だけど、90年代の日本では珍しかったみたいで。多くの人が面白がってくれて、『一緒にご飯でも食べよう』と言ってくれたり、仕事をくれたりもしたんです」

ニューヨークではアジア人の無名カメラマンがどれだけ売り込みに回っても、滅多に仕事にありつけないどころか、まるで石ころのように扱われることも日常茶飯事だった。

当時の若木氏にとって、東京のクリエイティブ界隈の大人たちの対応は、まるで別世界の温かく大らかなものに感じられたという。

「その後、仕事でニューヨークに来る編集者やクリエイターに声をかけてもらって、現地コーディネーターみたいなこともやらせてもらいました。当時の僕は若くて無謀で、かなり生意気なやつだったんだけど(笑)、それでも『面白い奴がいるぞ!』って言ってもらえたし、チャンスをもらえた。

そのあたりから、東京でもカメラマンの仕事で呼ばれるようになったんです。やってみようと思った理由は、生きるため。東京で数カ月仕事をすれば、しばらくはニューヨークで生活できるお金も稼げましたから。それに、東京で仕事を始めたら、ニューヨークの雑誌から『日本人の目線で東京を撮ってきて欲しい』なんて依頼も来るようになって。そのとき、ほとんど初めて“東京”を撮る目線で眺めてみたんですけど、完全に外国人目線である自分に気づきました」

――外国人目線で東京を見ていた?

「はい。浜松で18年間育って、その後、ニューヨークに7年住んで。

東京にはなじみが全くなかったからというのもありますし。当時の僕はニューヨークの写真やアートやファッションに心を持っていかれていたから、東京の人やカルチャーに違和感があった。何を見ても『エキゾチックトーキョー!』という感じ(笑)。

何を撮ったら面白い東京なのかよくわからなくて。知人に映画『トパーズ』(村上龍監督,高岡早紀主演)に出ていた、SMの女王様を紹介してもらって、SMの衣装で渋谷センター街に立ってもらって撮影したりしてましたね(笑)」


――それは、外国人観光客が喜びそうなノリですね(笑)。

「完全に迷惑な外人でした(笑)。東京ではそんな無茶なゲリラ撮影ばかりしていたんですけど、また、それを面白がってくれる人もいたんです。

同時期に最初のマネージャーとも出会い、東京でも事務所に入りました。それが渋谷の桜ヶ丘。出版社ロッキング・オンがある街でもあって。『ROCKIN'ON』にポートフォリオを持って行ったときに、『Beastie Boysが来日するんだよね』という話を聞いた。すごく好きだったから、『撮りたいです! 彼らはオレしか撮れないと思います!』って強気のプレゼンをして。

いきなり表紙を撮影させてもらったんですけど、それがいちばん最初の『ROCKIN'ON』の仕事になりました」

いきなり表紙撮影とは驚きだが、それも若木氏のセンスと実力と行動力のなせる技かと尋ねると、「運もあったと思う」と述懐する。

「仕事でも物事を進めるにしても、時代の流れって大きいと思うんです。僕が東京で仕事し始めた頃は、少し上の世代だと高橋恭司さんとか、ホンマタカシさんとか、同世代なら蜷川実花さん、長嶋有里枝さん、HIROMIXとか。アシスタントを通過せずとも、いきなり写真家として作品を発表して話題を呼んでいる人たちが東京に出てきて。僕もその時期に上京したから、いきなり大きな仕事をもらえたり、その後も波に乗ったというのはあると思います」

■無知は強みだし、行動が全て

日米を行き来して、3年近くが経過。

相変わらず、ニューヨークでは月に1~2本の撮影の仕事も、東京に来れば引く手数多の売れっ子カメラマンに。

“ニューヨークからやってきた、ちょっと生意気な若手カメラマン”は各所で話題を呼び、雑誌の表紙やモード誌のファッション撮影、SMAPをはじめとする日本のトップアーティストのCDジャケット、一流企業の広告撮影など、大きな仕事が次々に舞い込むようになった。

「とうとう29歳のとき、東京に拠点を移すことを決めました。流れに身を任せているうちに、物理的にも上京せざるを得なくなった感じでしたね」

トントン拍子で売れっ子カメラマンになってから、東京から引き寄せられるように上京。さぞや、初めから充実した楽しい東京ライフだろうと思いきや、「ニューヨーク在住のときみたいに貧乏はしなかったけど、うまくいかない部分とか葛藤はありましたよ」と若木さん。

「今もそうだけど、東京はガラパゴス化している街ですよね。だからこそ、オリジナリティが保たれてもいるんでしょうけど……。最初は東京のカルチャーが理解できず、合わせることができなかったんです。

僕は僕でオールドスタイルのニューヨークを引っ張ってきているから、全然感覚が合わない。たとえば、当時の東京では、猫も杓子も白い壁をバックに人物を撮影しろと言われた。平面に撮るっていう、いわば、浮世絵スタイル。同時代のニューヨークでは、奥行きのある設定や場所を選んで撮る、3Dスタイルが主流だった。

当時は人一倍、オレオレな若者だったから反発心も強くて。こちらは、VOGUEとかIDとか世界のモード誌のイメージを描いて撮っているのに、雑誌のデザインでまったく別物になってショックを受けるなんて日常茶飯事。今思えば、日本の雑誌にはそれぞれのカラーや役割があるし、東京は東京のスタイルでやったほうが良いことも理解できるんですけど、当時は受け入れられなかったです」

当時の若木さんは、若きクリエイターの中でも突出して尖っていた。反抗心をむき出しにして、数多く撮影した写真の中からベストなものを選ぶ広告の仕事ですらも「1枚しか撮らない」など自分のスタイルを貫き通した。

「現場の方々はみんな優しいから、生意気なカメラマンに面と向かって文句を言うような人はいませんでした。だけど、そっと距離を置かれたり、知らず知らずのうちに失った仕事もあったと思います。でも、いろんな経験を積んで、東京に流されているうちに少しずつ丸くなったのかなぁ。雑誌や広告はみんなで作るものだし、仕事場は、自分の作品を発表してくれる場ではないことに遅ればせながら気づきました(笑)。自分の作品は別の機会を見つけて撮るべきだなと」


――なるほど。

「でも、今思えば、無知でオレオレな時期があったのも悪くなかったなって。若手だからと萎縮して最初からルールに合わせようとしたら、無謀な行動はできなくなるし、失敗したり打たれてみないとわからないことや納得できないこともありますよね。生意気だと嫌われて仕事が減っても、爪痕を残せたことで、次の新しい仕事や面白い仕事にめぐり逢えたこともありましたから。そう考えると無知ゆえの無謀な行動力って大切だし、東京に流されて丸くはなったけれど、写真に対する考え方とか人間性が変わったわけじゃない」

あれから、約20年。

その間、ずっと写真家・映画監督として東京の最前線で活躍しながら、プライベートでは、結婚して子どもも生まれた。東京は若木さんにとって仕事をするだけ場所から、生きる場所にもなった。

――20年近く暮らして、東京に対する見方や想いは変わりましたか?

「そんなに変わらないですね。いまだにどこか外国人目線ですし。東京とそのカルチャーは相変わらずガラパゴス化していますけど、そこが魅力でもあるなとも思います。

孤立しているからこそ、いろんなことを柔軟にやれる街だし、可能性も広がる。それこそ、ニューヨークではファッションはファッション、ポートレートはポートレートとカメラマンでも住みわけがくっきりできていて。各分野の層も厚いし、レベルも高いから、入り込みづらいし、上のレベルに上がりにくいんです。でも、東京ではもっと何でもありというか、意思と行動力さえあれば、自由にジャンルを超えて撮りたいものが撮れる。

クリエイターはもちろん、セルフプロデュース次第でやりたいことをやって受け入れてもらえる場所だなと。今は東京のブランド力も高まっているし、SNSで個人でも世界にも発信でできるから、より可能性は広がったんじゃないかなぁ」

――この街で若き日の若木さんのようにチャンスを掴むにはどうしたらいいでしょう?

「時代が違うから、一概には言えないですけど、まず、自分の思いのままに行動してみることですかね。

普通は失敗したくないから、先にその場のルールやマニュアルを学ぼうとするけれど。そうすると、二の足を踏んでしまうこともあるし、個性が失われることもあると思うんです。無知は強みだし、行動が全て。僕が東京で最初から自由に挑戦できたのは、ニューヨークでも行動し続けて、図々しさを手に入れたからだと思いますし。それから、『どうせ失敗するよ』と人から止められることほどやったほうが良いと思います」


――と言いますと?

「僕は、日本で初めての写真展も映画を撮る時も周囲に反対されたんですけど、それでも、貫いて行動したら、それが自分にとって大きなものになったんですね。だから、今も変わらない。

今年は、カメラマンなのに、絵本を作ったりしているんですけど、それも反対されたことですから。つまり、人の評価よりも、自分の好きなことやりたいことを信じるということ。それを行動に移すことが、生きる上での変わらない基本かなと思います」

取材・Text/芳麗
Photo/池田博美

DRESSでは8月特集「東京の君へ」と題して、夢や希望を持って上京し、東京で活躍する「表現者」たちの“東京物語”をお届けしていきます。

芳麗

“新しい女性の生き方”を探して、取材、考察、執筆し続けている文筆家。著名人など多種多様な人物にインタビュー、女性誌「andGIRL」やWEB媒体「cakes」などにコラムや対談の連載を持つ。 著作に「3000人にインタビュー...

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