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何を選ぶかじゃなく、選んだ後の行動が大事。東京で手にした「生きてく力」

料理研究家の河瀬璃菜さんは22歳のときに上京。今やテレビやラジオ、Webなどで引っ張りだこの人気料理研究家ですが、東京にやってきたばかりのころは、食を仕事にする予定はなかったといいます。河瀬さんの想いを変えることになった出来事や無我夢中で走ってきた時期のお話などをインタビュー。河瀬さんの東京物語に迫ります。

何を選ぶかじゃなく、選んだ後の行動が大事。東京で手にした「生きてく力」

強い意志を持った目をしている人。4年ほど前、河瀬璃菜さんと初めてお会いしたときに感じた印象です。

キリリとした大きな目が印象的なだけでなく、機敏な動作や知性があふれる受け答え。凛とした素敵な女性。

その後、河瀬さんは料理研究家として、人気・実力ともに上がっていき、数年後にはメディアでの露出が増え、多くの人が挑戦しやすい料理を提案する人になっていました。

独立後は料理研究だけでなく、商品開発などにも力を入れるようになり、河瀬さんだからこそできる食の仕事を開拓されています。

上京して約8年。その間の彼女はどんなふうに生き、もがいたり、浮き上がったりして、8年を過ごしてきたのか。注目の料理研究家に話を伺いました。

河瀬璃菜
料理研究家、フードコーディネーター。レシピ開発、商品開発、レシピ動画制作、コンサル、企画執筆、編集、イベント・メディア出演、料理教室など、食にまつわる幅広い領域で活躍。『ジャーではじめるDETOX WATER』『決定版!節約冷凍レシピ』など著書多数。ツイッターは@Linasuke0508

22歳で就職のため東京に出てきたのは、震災直後の2011年4月でした。それからわずか1週間で父が他界したことは、私にとってとても衝撃的な出来事でしたね。

大きなショックを受けたせいか、仕事にも行けなくなって、せっかく入った会社も辞めてしまいました。

転機が訪れたのは1〜2年経ったころ。法事に出るために地元へ戻る飛行機のなかで、突然「食の仕事をしよう」と思い立ったんです。

福岡に降り立ってすぐ、スマホで「料理学校 東京」と検索して上位に表示されたフードコーディネータースクールに、入学金50万円を振り込んだのはその翌日でした。

■あのときの記憶がない

2013年くらいだったと思います。というのは、父が亡くなってから1〜2年の記憶が、ところどころ抜け落ちているからです。当時はアルバイトしかしていませんでした。

ただ、料理をするのも食べるのも昔から大好きで、それは母の影響を受けていると思います。家族以外に私や兄の友だち、父が経営する会社で働く人など、実家には常にいろいろな人が出入りしていて、母の作ったごはんを食べていたんです。

今も実家に私の友だちが遊びにくることもよくあるみたいです。私自身は東京にいるので、友人がフェイスブックで「河瀬家でバーベキューしてる」みたいな投稿をするのを見て、ああ、いるんだ(笑)と知ります。

父が亡くなって7年、ひとり暮らしをしている母のもとへ友人が訪ねてきてくれるのは、母と離れて暮らしている私にとって、とても安心感があります。

■不安でしかたがなかった

「東京は明暗のコントラストが強い街だと思います。楽しいと感じる瞬間がたくさんある反面、どこか不安を抱える瞬間もある」

スクールは半年間、週1回通学するコースでした。当時付き合っていた男性と中目黒で同棲し、スクール以外の日はカフェでアルバイト。「この人と結婚しようかな」とも思っていましたね。

でも、スクールを卒業するころ、彼と別れることになって。どうしようかと思いました。ひとり暮らしになるわけなので、新たに住む部屋も探さないといけないし、アルバイトではない職探しもしなければ……と。

そこでアシスタント募集を出していたレシピ制作会社に、ひとまず話を聞きにいったんです。その日に「明日から来てください」と言われる超スピード採用でしたが、迷わず入社を決めました。

彼と別れてひとりになったこともあって、何かしていないと不安で仕方なかったんですよね。会社まで自転車で通勤できる恵比寿に引っ越しました。

■給料12万円で家賃12.8万円?

とにかくお金がなかったんです。試用期間中の給料は12万円で、家賃が12万8000円、という時点で足が出ますよね(笑)。

料理研究家としてメディアに顔を出して仕事をすることも多いので、安心・安全を考えた上で、大通りに面したオートロックの物件を借りたんです。

ワンルームの狭い部屋なのに、家賃高すぎですよね。東京のいろいろなところが好きですけど、家賃の高さだけは嫌いです(笑)。

試用期間が終わっても給料は16万円くらいだったので、貯金を切り崩して暮らしていました。

最終的には20万円を手取りでいただいていましたが、それでも東京でひとり暮らしをするにはなかなか厳しいですよね。

そのとき、お金がないとできないことって多いんだなと、身をもって知りました。

たとえば初診料3000〜4000円を払うのも金銭的にキツくて、体調を崩しても市販薬でなんとか乗り切ろうとしたり、トイレットペーパーを買うのすら、「ダブルよりシングルのほうがコスパはいいよね」と本気で悩んだり(笑)。

会社で試作品を食べられるので、食には困らない一方で、美容やおしゃれに回せるお金は、がんばって切り詰めないと捻出できませんでした。

■走り続けて「土台」を作った3年

勤めていた3年のうち1年は、恵比寿のワインバーでも働いていました。

全然知識がないままに雇っていただいたので、ワインのオーダーを受けて提供するまで時間がかかりすぎて、店長から「河瀬さん、のろますぎるよ!」と叱られるばかり(笑)。

ただ、食とは切っても切れないお酒について学ぶこともできる貴重な機会でもありました。体力的に続かなくて1年でやめたんですけどね。

そんな生活を送っていると、「もっと良い条件の会社があったのでは?」とか「よく3年も勤めたね。転職は考えなかったの?」と聞かれることもありますが、そんなことを考える暇なんて当時なかったというのが正直なところ。

目の前の仕事を精いっぱいやる。無我夢中で取り組んで良いものを作る。ただ、それだけでした。

「今日から河瀬さん、Web担当だからね」と突然言われたときも、やるしかないという感じでした。Webもそんなに詳しくなかったし、企画を作ったことも、飲食店を取材したこともなかったですが(笑)。

■続ければ必ず血肉になる

「東京は自分の軸を持って動いている、目標がある人にとってはチャンスも多く、可能性に満ち溢れた優しい街だけれど、そうでない人にとっては飲み込まれる危険性もある街ですね」

Webでどんな企画がウケるのかも、飲食店へのアポ取りの仕方も、最初は何もかもわからなかったというか、わからないことだらけでした。

トライ・アンド・エラーを重ねるしかなかったですね。初期のころは本当に大変でしたが、成果物を出してから、うまくいったもの、うまくいかなかったもののをマーケティング的に分析して、うまくいったやり方を展開していくことを繰り返していました。

当時、レシピの企画を月100本考えて、構成案まで書き上げるのが私の仕事の一部でした。「企画100本ノック」と呼んでいますが、一見ハードなことでもコツコツ続けてきたことが、私の血肉になっていると思います。

何にも言えると思いますが、やりたいことがあるなら1年くらいは続けてみないと、面白さも嫌なところも見えてこないもの。

途中でやめてしまうと、続けてきた時間がもったいないな、と思うんです。続けてきたことは必ず何かしらの形になると信じているから、3年間のうちに折れそうになることも何回もあったけど、投げ出さずにやってこられました。

■「私には何もない」と自覚する苦しさ

長いあいだ、「自分には何もない」と自覚して生きてきたんです。古くは実家にいたころ、3つ上の兄が、何もしなくても人が集まってくる太陽みたいな人で。「私はお兄ちゃんとは違うんだな」とコンプレックスに似たものを感じていました。

スクールを卒業して会社に入った20代半ばのときも、相変わらず自分に自信はなかったです。あったのは「これからどう生きていこうか?」という不安だけ。

だから、自信を持つためにまずは食の仕事をがんばろう、自分がやろうと思ったことをやりきろうと決意できました。仕事が自分にとっての拠りどころになっていたんですね。

父の死も大きなターニングポイントになりました。葬儀をするのもお墓を買うのも、とにかく何をするにもお金がかかるのを見て、大事な人に何かあったときのために、自分も経済力を身につけたいと思ったんです。

そうすればその人を助けられるし、できることも選択肢も増えますから。もちろん、仕事は自分の目標を実現する手段のひとつでもありますが、大切な人を支えることもできます。

今なら、家族(夫)が事故に遭ったり、病気になったりしたら、「いいよ。少し休みなよ」と言えますが、以前なら無理だったと思います。

■退職からの独立は迷わなかった

「“何を選んだかじゃなくて、選んだ後にどんな行動をするか”だと思います。」

退職したのは2017年の年明けです。辞めるつもりはなかったんですが、会社の方針が突然変わり、提示された新たな社内規約に同意できず、退職する選択肢しかありませんでした。

当時、通帳には貯金が1円もなくて、ストレスでいっぱいでしたが、前年の秋に結婚していた夫が力になってくれました。

住む家は確保できているから、どうにかなるとも思えましたし、凹んでいる私の横で、逆境を楽しんで打開しようとする夫を見ていると、「全然大したことじゃないんだな」と思えるようになって。

夫と出会うまでは、人に頼ることができないタイプでした。赤字続きで貯金残高がいよいよ底をつきかけてきたときも、親に頼ることすらできなくて。

助けを求めれば援助してくれたと思いますが、父に代わって代表取締役としてがんばる母を、私のことで悩ませたくなかった。だから母と会ったときには、東京でいきいきと働いている姿しか見せないようにしていました。

夫は賢くて正義感が強く、いろいろな経験をしてきた人だし、本当に困ったときに頼れる人。ブレることのないパートナーと共に生きる安心感は大きいですね。

■「地方のいいもの」を広めるお手伝いをしたい

独立して1年半になる今、特に力を入れているのは6次産業化(※)商品開発です。

地方には素晴らしい商品を作っているのに、ブランディングやマーケティングのノウハウ、リソースがないために、広く知ってもらうことができない、という悩みを抱える生産者さんがたくさんいます。

せっかく良いものを作っているなら、世の中に知らせたいですし、知られて購入されることで売上は上がるし、離農の道を選ぶ方も少なくなると思うんです。

※1次産業としての農林漁業、2次産業としての製造業、3次産業としての小売業等の各産業分野がそれぞれの強みを生かして、他産業にも分野を拡大したり、相互に連携したりしながら、新たな価値を生み出す取り組みのこと。

これからもレシピ制作は続けていきますが、「食」をベースに、日本の良質な食材や良い生産者さんを応援する活動に注力していきたいですね。それが料理研究家としての、私の使命だと思っています。

Text/池田園子
Photo/タカハシアキラ

DRESSでは8月特集「東京の君へ」と題して、夢や希望を持って上京し、東京で活躍する「表現者」たちの“東京物語”をお届けしていきます。

DRESS編集部

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