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95歳インスタグラマー、若さの秘訣はココロ美人

世界中から人気を集めるファッションモデル。けれど、ずっと華やかな人生を送ってきたわけではない。

95歳インスタグラマー、若さの秘訣はココロ美人

兵庫県伊丹市に、instagramで絶大な人気を誇る95歳のファッションモデルがいます。

彼女の名は渡久地(とぐち)恵美子さん。3年ほど前に孫の千波さんがつくる「さをり織り」のマフラーやヘッドバンドで着飾り、その姿を写真に撮って投稿したところ、瞬く間に人気急上昇。いいね!やコメントが世界中から寄せられ、いまやアカウント@1000waveのフォロワーは4万人以上にもなっています。

ファッションモデルとしても世界中から人気を集める、渡久地恵美子さん

そんな恵美子さんですが、若い頃にはさまざまな苦労や悲しい経験を乗り越えてきた過去もありました。婚約、別れ、空襲、終戦、帰郷、再会、死別、震災、そしてモデルデビュー。並べただけでも壮絶にして悲喜こもごも、波乱万丈な人生を送ってきた。そんな彼女だからこそ語れる、いつまでも若く、明るく、そして美しい女性であり続けるためのヒントを伺いました。

■18歳で婚約してすぐ夫は戦地へと旅立ってしまう

——お生まれは沖縄なんですよね?

そうです。大正11年(1922年)に沖縄県伊江島の伊江村で生まれました。うちの兄弟姉妹は合わせて6人。兄と姉がひとりずつ、弟が3人いました。私は3番目で次女でした。

—夫の政良(せいりょう)さんとの出会いについて教えてください。

初めて会ったのは私が18歳のときです。うちの父と夫のお父様が仲良しだったこともあって、親同士で決めて許嫁をしました。まあ昔のことですからね。

だから初めて会うことになった日は、すごく恥ずかしかったのを覚えています。向こうから夫が歩いてくるのが見えて、あまりの恥ずかしさに隠れたほどでした(笑)。

——ところがすぐに戦争という運命によってふたりは引き裂かれてしまう。

ええ、そうなんです。戦争が始まってすぐに彼は戦地へと行ってしまいました。私は島に残っていても仕事も何もすることがないので、親に「横浜へ出て仕事をしたい」と言いました。

もちろん島を出るにあたって周囲は大反対!
当時は年頃の娘をひとりで都会へ出すなどということは考えられないことでしたから。

でも私は「間違いは犯さないし、ちゃんと帰ってくる」と約束を取り付けて、やっとのことで横浜に出してもらえたんです。

■横浜で体験した空襲と終戦、そして……

——横浜での生活はいかがでしたか?

当時、私はとある工場の食堂で働いていたのですが、とにかくアメリカ軍のB29戦闘機による空襲が毎日のようにあって……それはそれは恐ろしかったです。住んでいた社宅も空襲で燃えてしまい、着の身着のままで逃げたこともありました。とにかくあたり一面、焼け野原という状況でしたから。

——終戦の時はおいくつだったのですか?

23歳になっていました。工場には大学生や若い人たちが大勢いて、若い学生らがみんなで集まって泣いて悔しがっていた姿が今でも目に浮かびます。

——今でいうところの18歳から23歳といえば、オシャレしたり遊んだりデートしたりしたい時期ですが……。

まあ戦争でしたからね。仕方がありません。とにかく命からがらでしたから、自分が生き延びることしか頭にありませんでした。

——終戦後に沖縄へ戻られるんですよね?

終戦してすぐ、横浜に住んでいたいとこの家に遊びに行ったとき、新聞を見て伊江島で別れた夫が熊本病院に入院しているということを知りました。それで食べ物なんかをいろいろ買ってすぐに熊本病院へ向かいました。ところが病院に着くと「1カ月前に退院されましたよ」と言われちゃいましてね。

——行き違いだったんですね。

そうなんです。それでもういちど横浜へ戻るか? それとも沖縄へ帰るか? ずいぶんと悩みました。風の便りでは「島にはもう年寄りと子どもしか残っていない」と聞いていましたし、私ひとりで生活できるか不安だったもんですからねえ。

だけどやっぱり自分の生まれ育った故郷をどうしてももういちど見たくて、それで帰ることにしたのよ。

そうして帰ってみたら、弟がひとり戦死してしまっていたのですが、それ以外の親戚兄弟姉妹はみんな無事で生きていて……本当にびっくりしたし、とても嬉しかった! あとで聞くと本土に疎開していてみんな助かったのだと……。

■夫との再会、しかし、まさかの死別

——そこで政良(せいりょう)さんとも再会されたのですか?

ええ。そりゃあ夢じゃないかと思うくらいにうれしかったですよ。再会したときの彼は戦地から帰ったばかりでしたから、ものすごく痩せ細っておりました。しかし栄養をつけて、少しずつ元気を取り戻していきましてね。

残念ながら、わが家は焼けてしまい残っていなかったので、テントの中で2所帯3所帯集まって生活していたんですけど、畑をおこすために、私も夫や他の男の人たちと一緒になってツルハシを握って、力仕事を精一杯していました。

とにかく戦後すぐのことでもちろんみんな貧しかったのですが、夫と、その間で授かった5人の娘たち、そして戦争を生き延びた兄弟姉妹に親戚たち。みんなで暮らす平穏な日々のなかで、ささやかな幸せを噛み締める時間が訪れたことに感謝していました。

——力仕事もして、子育てもするその姿は、まるでアクティブに活躍する現代女性のようですね。

昔は大所帯で暮らしていたので、家の中に助けてくれる人がたくさんいましたからね。そういう点では、もしかしたら今の女性のほうが大変かもしれません。

——そんな暮らしの中で、恵美子さんはご主人を亡くされています。踏み込んだ話になってしまいますが、そのときのことを聞かせていただけますか?

終戦して島に帰ってきてからわずか10年で夫が死んじゃいましてね。

——亡くなられた原因はなんだったのですか?

彼は大工さんをしておったのですが、仕事中に足を怪我してしまい、そこからばい菌が入ったようで、破傷風にかかってしまいました。入院してからたったの一週間であっけなく亡くなってしまって。薬も手に入らない時代でしたから。

——さぞかしお辛かったと思います。

それはもう、とても悲しかったです。せっかく戦争も終わり家族も増えて、やっと新しい人生が始まった、と思ったばかりでしたから。もうちょっと一緒にいたかったです。

■逆境を支え続けた「人のために働く」という意思

——そんな恵美子さんの心を支えていたものはなんだったのですか?

やっぱり一緒に住んでいた親戚や家族の支えが大きかったですね。あと、人のために何か役に立つことが私の生きがいになっておったんです。だからとにもかくにも余計なことはいっさい考えずに、5人の娘の世話をし、日々の仕事に勤しむ。

そうやって誰かのために自分の身体を動かしていることで、気持ちも前に進めたのだと思います。

——5人のお子様は現在どうされていますか?

長女と四女は今も沖縄に住んでいます。次女は兵庫県の西宮。末娘はイギリスに住んでいます。そして三女が兵庫県の伊丹市に住んでいて、私は40年ほど前からその三女と一緒に暮らしています。

——そこで1995年の阪神淡路大震災に遭われるんですよね?

そうなんです。幸い大きな怪我などはなかったのですが、家は壊れてしまって住める状況ではありませんしたので、いっときは仮設住宅で暮らしていました。

——なかなか平穏にとはいかない人生ですよね。

まあ波乱万丈の人生です。映画にできるんじゃないですか(笑)。

■93歳で初めて知った自由を楽しむという喜び

「さをり織り」を作るめに使う織り機。周りにはカラフルな素材が。

——まさに映画のような壮絶な体験をされてきて、いよいよ90歳を超えてモデルデビューとなるわけですが、きっかけはどういうものだったのですか?

5年ほど前から孫が「さをり織り」という織物を作る仕事をしていて、その手伝いをしていたんです。糸を巻いたり、絡んだ糸を直したり。それで、今から3年ほど前(2015年)に「私が作った織物作品のモデルをやってよ!」と頼まれたのが最初でした。最初は断ったんですよ。「そんな年寄りがモデルなんておかしい」といってね。でも試しにやってみてと言われて……仕方なく一回だけやってみたのがきっかけでした。

——でもモデルは一回きりではなくて、そのあとも続けていらっしゃいます。

やっぱりやってみると楽しかったのよねえ。孫が次から次へとカラフル服やマフラーなんかを持ってきてくれて、着替えをしたり、お化粧したり、マニキュアを塗ったりするでしょう?

歳をとっても女性はそういうの、やっぱり楽しいのよね。Instagramを見た人から「カワイイ!」とか「笑顔が素敵!」とかいろいろコメントをいただくのもすごくうれしかったし、たくさんいいね!がつくのもそうね。だんだん楽しくなってきちゃって、自分がどんどん若返っていくような気持ちがしてきたんです。

——周囲の人々の評価はいかがでした?

今は週に一回デイケアセンターに通っているんですけど、そこの看護師さんが「モデルさん、モデルさん」って言ってチヤホヤしてくれる。もちろんちょっと恥ずかしいですけど、やっぱりうれしいものよね。

——恵美子さんご自身の中で、心境の変化はありましたか?

90歳も越えてくるとさすがに身体の自由もきかなくなって、外もあまり歩けなくなり、掃除や家事も思うようにできなくなってきます。いくら気持ちが元気でも身体がどうにも追いつかないんです。

でもそうやって家でジッとしていたら、今度は気持ちまで落ちてきます。だから孫の「さをり織り」のお手伝いもそうですし、写真のモデルもそうですけど、自分の役割があるということ、自分が人のために役に立つことや、喜んでもらえることがあると感じるだけで、私自身の気持ちがものすごく明るくなったんですよ。

■出版社や有名ブランドからも声が掛かる人気モデルに

——2016年には写真集『おばあちゃんはファッションモデル』も出版されていますよね?

その頃、Instagramを見てくれているフォロワーの人から「おばあちゃんの写真がほしい」という声をたくさんいただいていたんですね。私や孫にとってもいい思い出になるし、自費出版でもいいので写真集が作れないかと考えていたタイミングで、出版社の方からお話をいただきました。ラッキーでした(笑)。

——高級ブランドであるGUCCI(グッチ)とのコラボも実現したと聞きました。

これもInstagramで、グッチが画家や写真家といったいろんなアーティストに呼びかけ、それぞれの表現方法で「ティアン」というグッチのモノグラム柄にインスピレーションを受けて、作品を作るという企画があったみたいなんです。

その企画のオファーをグッチさんからいただきました。孫は織物をしているので、その「ティアン」をモチーフにした織物の作品を作って私がそれを身にまとって写真をアップしました。すごい反響でしたし、すごい時代になったなあと思いましたよ。私どもの時代では考えられないことです。

■心を磨けば、人はいつでも、いつまでも美しく輝ける

——今後の夢はありますか?

この歳ですから夢なんていうほどものはありません。

でも人の役に立ちたいという気持ちはいまもありますし、これからも変わらないと思います。ここで孫の仕事を手伝っているのもそうです。まだまだ自分は人のために役に立ちたいんですよね。

——でも今まで十分過ぎるほど人のために生きてこられたのだし、これからはご自分のために好きなことだけしても良いのでは……と思ってしまいます。

人のためになることが、自分のためでもあるんです。

誰かのなにかを手伝って「助かるわあ!」って喜んでもらえたら、私もうれしくなってくる。

それに自分の身体が元気じゃないと人の手伝いはできないでしょう? だから人のために働いて、喜んでもらう。それがなにより私の元気の源。モデルをやっているのも同じことなんです。

——なるほど。最後に社会で頑張っている女性へのメッセージをいただけますか?

私の若い頃とは違って、今は生活が豊かになって食べるものや着るものすべてが贅沢になりました。でも心はどうでしょうか?

歳をとって身体が動かなくなるとわかるけれど、やっぱり心を綺麗に磨いておかないと、あとでしんどくなってくると思います。

心の美しさ、内面の美しさ、女性に限ったことではないけどそれがいちばん大切なこと。自分さえ良ければいいというのではダメ。人の心の痛みを理解できる女性、そこに寄り添える女性、そういう人になってほしいです。

今の若い人は恋愛も自由にできる。好きな人と手を繋いだり、触れ合ったりすることも自由。お付き合いする相手や結婚するもしないも、みんな自分で探して自分で決められる。

それはやっぱり羨ましいし、とても大切なことです。だからこそ、自分の心を日々磨いていなきゃなりません。自由を満喫できる今の時代こそ、自分のことをよく知っておかないとねって、そう思うのです。

(編集後記)

取材を終えた後で「もしいま恵美子さんが20代だったら、自由奔放に遊んだりはしませんか?」と尋ねてみました。すると恵美子さんは「もちろん、遊んでるわよ」と悪戯っぽく笑っていらっしゃいました。その表情はまるで女学生のようで、可愛らしい娘さんといった眩しい笑顔でした。

「おしゃれな服を着て、好きな人と好きなだけ手を繋いだり、自由と若い恋を存分に謳歌してほしい。そして、そのぶん心もしっかり磨いてほしい」

女性が自由に生きること、それはなにものにも変えがたい素晴らしいものだということを、誰よりも知っている恵美子さんだからこそのメッセージだと感じました。

本格的な高齢化時代を迎えたいま、ただ長寿であればいいというのでなく「健康長寿」という考えが浸透していますが、もしかしたら今後は「美容長寿」という考え方も、これからの女性の生き方に重要なキーワードになっていくかもしれません。そして、ビューティーシニアになる秘訣こそが、この95歳のファッションモデルである恵美子さんの説く「心を美しく磨くこと」なのかもしれません。

取材・Text/松島直哉
Photo/小林航平

DRESS編集部

いろいろな顔を持つ女性たちへ。人の多面性を大切にするウェブメディア「DRESS」公式アカウントです。インタビューや対談を配信。

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