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友達に「変わらない」ことを期待するのはやめた

友達との関係は、一生続いていかなければならないのだろうか。近づいたり、離れたり、また近づいたり……そうやって、時間の経過とともに変化していくほうがきっと、お互いにラクチンだ。

友達に「変わらない」ことを期待するのはやめた



恋をしているとき、「この気持ちがいつかは冷めてしまうかもしれない」と考えることがあった。


だけど、友人に対してはどうだろうか?

仲のいい友人に対して、「今はとても好きだけど、そのうち好きじゃなくなる日が来るかも」と想像してみたことがある人は、もしかしたら少ないかもしれない。

だけど実際には、友人への気持ちが変化してしまうことは、よくある。

何かのきっかけでいきなり「好き」から「嫌い」になることもあるだろうし、そこまで極端ではなくても、「好き」から「ふつう」へ変わってしまうことだってあるだろう。ここで言う「ふつう」とは、好きと嫌いの中間あたりを指す。

好きだった人を、好きじゃなくなるとき。

「好きじゃなくなられた人」は、悲しい気持ちになるかもしれない。

だけど、「好きじゃなくなった人」もまた、悲しいのではないだろうか。

■気持ちの変化はコントロールできない

「なんか最近、あの人のこと嫌いになっちゃって……」

前の職場で、ある先輩に相談された。彼女は、些細なきっかけで仲の良かった同僚のことを嫌いになってしまったと言う。

とはいえ、相手への態度を急に変えることはない。

表面上は、今までと同じように接している。

だけど、今は嫌いなので、一緒に仕事をするのが苦痛らしい。

「いい年してこんなことで嫌いになるのはおかしいってわかってるけど、自分でもどうしようもないんだよ」

そう言う先輩は、とても悲しそうな顔をしていた。

それを見て、気づいたことがある。

「嫌いになる」んじゃなくて、「嫌いになってしまう」んだな。

自分の意思で嫌いになるわけではない。気持ちの変化は、彼女自身にもコントロールできないのだ。

たしかに私も、誰かへの気持ちを自分の意思でコントロールすることは難しい。

嫌いな相手のことはこれ以上嫌いにならないように距離を置くけれど、それだって、「嫌い」という気持ちそのものを変えることはできない。自分でコントロールできるのは「接し方」であって、「気持ち」ではないのだ。

そもそも、誰かを好きになることだって、自分の意思では決められないのではないか。少なくとも、私はそうだ。

宇多田ヒカルは、「そばにいるだけでドキドキが止まらなくなる」ことを「It’s automatic(自動的だ)」と歌っている。もちろん、それは恋について言っているわけだけど、恋ではない「好き」にも同じことが言えるのではないか。

人を好きになることが「It’s automatic」なら、嫌いになることだって「It’s automatic」なのかもしれない。

■人生のロールモデルに出会った

16歳のとき、「四月ばか」に出会った。

四月ばかというのは、彼のことを日記に書くときの呼び名だ。
誕生日がエイプリルフールなので、そう呼んで(書いて)いた。本人に直接言ったことは、ない。


当時の私は、今以上に生きづらかった。


情緒不安定で中学二年から学校に行けなくなり、高校に進学したものの、やっぱり行けなくなって中退。
通信制高校に再入学してからは、バイトや演劇活動などで充実した生活を送っていたけど、メンタルは相変わらず不安定で、精神科に通院していた。

「一般的な高校生活が送れなかった」という劣等感に苦しむ日々。

みんなができることが、私にはできない。そんな自分が大嫌いなのに、誰かから認めてほしくてたまらない。自意識をこじらせて、派手なファッションや奇抜な言動に走っていた(いわゆる黒歴史)。


四月ばかに出会ったのは、そんなときだ。

彼は私よりも2歳年上で、高校に行っていなかった。中退したのではなく、進学しなかったと言う。中学生のときから学校教育というものに馴染めず、学校に行かないことを選んだらしい。

四月ばかは定職に就かず、定住もしていない。バイトをしてお金を貯めては、ふらふらとどこかへ行ってしまう。行く先々で、知り合った人の家に居候したり、住み込みのバイトをしたりしながら、日本各地(ときには海外)を転々としているのだ。

当時の私は、四月ばかの生き方に感銘を受けた。

それまでは、「高校に進学するのが当たり前」という価値観の人にしか出会ったことがなく、そんな生き方があるなんて思いもしなかった。

私には、学校に行けない劣等感について話せる相手がいなかった。友人はみんな全日制高校に通っていて、どうしたって理解してもらえない。

四月ばかは、そんな私の唯一の理解者だった。

私たちは、学校という枠組みに適応できなかった者同士、とても気が合った。考え方もよく似ていて、恥ずかしいけれど、私は彼のことを「精神的な双子」のように感じていた。

彼は、決して刹那的に生きているわけではない。そのときどきで何かしらの目標を持ち、挫折しながらも人生と向き合っていた。

四月ばかのようになりたかった。

彼に対する感情は「友情」と呼ぶにはやや重いものだった。私は、四月ばかをロールモデルにしていた。それは、ある意味では恋愛感情よりも重い、依存的な友情だったと思う。

しかし、四月ばかはまた次の土地へと旅立ってしまった。

次に再会したのは私が21歳のとき。その翌年には彼の結婚式に招待してもらった。

それからはまた、ごくたまにメールのやりとりをするだけ。

彼は定住していたけれど、遠方だったので会う機会はなかった。

■どうしたって、人は変わってしまう

29歳のとき。
たまたま四月ばかの住んでいる県に行く用事があり、連絡した。

その頃には私も結婚していて、私は夫とともに、彼のお宅を訪問することになった。

四月ばかに会うのは、実に7年ぶりだった。

だけど、私たちは今も変わらず親友だ。

会っている時間と友情の重さは比例しない。

ブランクなんて一瞬で埋まるはずだ。

……と思っていたが、現実は違った。


久しぶりに会う四月ばかは、なんだかピンとこなかった。

彼の言動の一つひとつに、「あれ、こんなこと言う人だっけ?」と思ってしまう。なんだろう、彼が悪いことを言っているわけではないのだけど、いちいち共感できないのだ。

向こうは向こうで同じことを思っているのか、「なんかお前、落ち着いちゃったな」と残念そうに言った。

「つまらなくなった」と言われたようで、ムッとする。

四月ばかは、しきりに16歳の私について話した。私の夫に対して、「あなたは知らないだろうけど、こいつはものすごくエキセントリックだったんですよ」といったことを吹き込んでいる。

私はますますムッとする。

過去を暴露されたからではない。私がへんてこだったのは、夫だって知っている。

「あの四月ばかがつまらない思い出話をしていること」が、たまらなく残念だったのだ。

四月ばかともあろう者が思い出話なんてありふれたことをしてくれるな! 昔の四月ばかは、もっとずっと面白い人だった。私が目指していた君はどこへ行ってしまったんだ。

そして、はたと気づく。

私も四月ばかも、お互い相手に「変わっていない」ことを求めている。やっぱり、似ているのだ。

だけど、変わらないわけはない。私も彼も、年を重ねて価値観が変化している。

ズレが生じるのはしかたないのだろう。

私が悪いわけでも、彼が悪いわけでもなく、ただ、合わなくなったのだ。

■相手にも、自分の気持ちにも、変わらないことを期待しない

四月ばかのことを、嫌いになったわけではない。

ただ、あんなにも友人として好きだったのに、「ふつう」になってしまったことが、私はとても悲しかった。

恋愛であれば、「好き」が「ふつう」になることは、恋心が冷めたことを意味するのかもしれない。

しかし、友人の場合は、気持ちの行き場がわからない。

本人に「あなたのこと、前は親友だと思ってたけど今はそれほどでもないです」と表明するわけでもないし、表面的にはそれまでと変わらない関係が続く。だからいっそう、もやもやする。

私は、自分の四月ばかへの気持ちはずっと変わらないと思い込んでいた。

だけど、「相手のことをずっと好きなはず」という前提は、自分自身への期待であると同時に、相手への期待にもなり得る。

「あなたは私の大好きな親友なんだから、いつまでもそれにふさわしい人間でいてね」という期待だ。

それはとても身勝手で、相手と自分の首を同時に絞める。

それなら私は、「気持ちは変わるもの」という前提を持とう。

私が変わるように、あなたも変わる。だから、私の気持ちも変わってしまうかもしれない。

It’s automatic――.

気持ちの変化は、自分ではどうしようもないのだ。

吉玉 サキ

1983年生まれ。noteにエッセイを書いていたらDRESSで連載させていただくことになった主婦です。小心者。

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