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婦人科に男性がいるのを見て、立ちすくんでしまった私も「加害者」だった

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多様性が叫ばれている今でも、「女だから家事をして前」「異性と恋愛するのが当たり前」などの考え方が、未だに多くの人の中に残っているなと感じることは少なくありません。「私はそういう思い込みはないから大丈夫」と思っていても、自分でも気づいていない無意識のレベルでの決めつけが、誰かを傷つけてしまっているかもしれません。

婦人科に男性がいるのを見て、立ちすくんでしまった私も「加害者」だった

■衣服の手入れは妻がして当たり前?

世の中の「当たり前」を感じさせられる場面はよくある。

先日、夫のスーツを買いにいくと、接客してくれていた女性スタッフさんが、「奥様、こちらのスーツのお手入れは……」と私に向かって説明し始めた。

それまでは基本的に夫の方を向いて話していたのに、お手入れの話になった途端にクルッと体を回して私の方に向き直ったのだ。

たしかに、我が家では衣類の洗濯やクリーニング店とのやりとりを私がしているので、結果的にその対応で合っている。でも初めて会ったスタッフが、そんな我が家の事情を知るわけがない。

それなのに彼女が迷いなく私の方に向き直ったのは、「衣服の手入れ=妻の仕事」というイメージが当たり前のものとして彼女の中にあるからだろう。

別にそこに「妻がするべきだ」という彼女の確固たる哲学とか主張が含まれているわけじゃない(少なくとも感じられなかった)。ただただ世の中全体にある「ふつう」「当たり前」が個人の無意識レベルにまで染みこんで、自然と一つひとつの行動に現れるってこういうことだよなと思ったのだ。

■「子どもはまだ?」も世間の「当たり前」のあらわれ

私は結婚7年目で子どもはいない。そうすると、やっぱり避けて通れないのが周囲からの「子どもはまだ?」の声。

結婚したら子どもを産み育てるのが当たり前、まだ子どものいない夫婦は早く授かりたいと思っているのが当たり前。そんな無意識レベルの「当たり前」をひしひしと感じる。

子どもについては、無意識の固定観念に加えて「産むべきだ」という個人の主張が含まれていることもよくあり、先ほどのスーツの件とはまた少し違うのだが、「夫婦は子どもを産み育てるのが当たり前」という観念を地動説並みの大前提として話す人が多いことに本当に驚く。

その「当たり前」をもとに非難されれば不快だし、非難はされずとも世間の「当たり前」から外れているよ、という対応をされるたびに傷ついている人はきっと多い。私もそのひとりだ。

■「自分は人を傷つけていないから大丈夫」という思い上がり。自分も加害者かもしれない

「子どもはまだ?」に辟易してきたこともあって、私は自分自身が勝手な「当たり前」をガチガチに抱いてそれに当てはまらない人を傷つける、なんてことがないように気をつけてきた。他人の働き方や家庭のあり方、恋愛の仕方、健康状態etc. いろんな人がいるしどんなスタイルも自由だよね~、という心持ちで生きてきた。

……つもりだった。

もちろん気をつけてはいるのだけれど、自分はそれが実行できていると思うのは、勘違いで思い上がりだった。それを痛感させられることがあったのだ。

ここ5年ほど定期的に通っている婦人科クリニックがある。いつものように診察室で医師と話した後、待合室に戻ったら、ソファに男性がひとりで座っていた。いや、男性に見える人がいたと言った方が正確かもしれない。

そのクリニックは分娩を扱っていないので、普段から妊婦のパートナーが付き添いでいることもなく、院内で男性を見かけたことがなかった。それもあってか、私は男性らしき人の存在に反射的にびっくりしてしまって待合室の入り口で一瞬立ち止まった。気配を察したのか、男性らしき人はふと顔を私の方に向け、目が合った。

思い出すたびに後悔するのだが、そのとき私はきっと「えっ」という表情のままだったと思う。

すぐにお互い視線を外して、私も何事もなかったかのように普通の表情でソファに腰掛けたのだが、自分の中に「婦人科には女性しか患者として来ないのが当たり前」と無意識レベルの思い込みがあったのだなと気づいた。

考えてみれば婦人科は性を扱う医療機関だから、女性として生まれたけれど性に違和感があるとか、その逆とか、ありとあらゆるパターンの人が訪れて当たり前なのだ。いかにも女性に見える女性だけが来る場所、ではない。

そんな当然のことにも気づかず、「えっ」と驚く表情の私と目が合ってしまったこの患者さんはどういう気持ちがしただろうかと思うと、本当に申し訳ない。驚かれたり不躾な視線を向けられたりすることに辟易していたかもしれない。

そんな人にまた同じ思いをさせたかと思うと自分は最低だと思う。まあすべて私の杞憂で、患者ではなく何か用があって待合室にいただけかもしれないけれど。

今回会ったその人がたとえ傷ついていないとしても、問題なのは自分の中にも正しくない「当たり前」がどーんと居座っていたことだ。

LGBTの友人もいるので、性的な多様性についても意識しているつもりだったのに、それはちっとも無意識レベルまで自分の中にしっかり根付いていなかった。

「子ども子どもって言われるの疲れる。押しつけないで」と愚痴りながら、その一方で私もまた誰かに同じ思いをさせてしまっているのかもしれない。

■自分の中の「当たり前」を一つひとつ減らしていく

自分の中に「当たり前」がどーんと巣くってないか、改めて見直さないといけないなと思わされた。

春は変化や出会いの多い季節だ。無意識に凝り固まった勝手な「当たり前」に気づいて、視野を広くするチャンスかもしれない。

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吉原 由梨

ライター、コラムニスト。1984年生まれ。東大法学部卒。外資系IT企業勤務、教授秘書職を経て、現在は執筆活動をしながら夫と二人暮らし。 好きなものは週末のワイン、夢中になれる本とドラマ、ふなっしー。マッサージともふもふのガ...

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