講談師(講釈師):一龍斎 貞鏡(いちりゅうさい ていきょう):講談協会:女性講談師
http://www.teikyo-ichiryusai.jp/女性講談師、お江戸日本橋亭、お江戸広小路亭など講談協会定席の他、学校寄席、中野講談会、渋谷講談会、地域寄席等で日本六十余州津々浦々廻っております。
日本三大話芸のひとつである「講談」。そんな伝統芸能の世界で、DRESS世代の女性が活躍している。美人講談師として人気の一龍齋貞鏡(いちりゅうさい・ていきょう)さんだ。今回は、男性社会の風潮が色濃く残る講談を舞台に活躍する彼女に、お話を伺った。
――「講談」とはどういうものですか?
「講談」とは、高座に上がり張扇で釈台を叩きながら、歴史にまつわる話を臨場感とともに口述する話芸です。
私はもともと、祖父が講談師の七代目・一龍斎貞山(いちりゅうさい・ていざん)の七代目、父が八代目・一龍斎貞山という家に生まれました。娘の私が一龍斎貞鏡で、講談師が三代続いています。とはいえ、講談界400年の歴史の中で、三代続くのは初めてとのこと。歌舞伎と違って世襲ではないので。
――講談師には女性も多いんですか?
最近は多くなってきましたね。
でも50年前までは皆無。男社会でした。
そもそも講談は男性の活躍のお話がほとんど。歌舞伎で女形の男性が女性の声を出すことに違和感はありませんが、講談で女性が男性の声を出すのはなかなか難しいんです。ですから昔はよく、「女なんかには、できねぇからやめろ!」と言われていたようですね。今でもその風潮は残っていますよ。
実際、私の師匠である父親も、最初は「女なんかできねえからやめろ」と言っていました。でも私は「いや、でもやってみなきゃわからないし!」と言って、結局大学卒業前に入門。でもね、「女になんか……」と豪語していた師匠も、娘が入門した今では「女の講談師もいいなあ」って意見が180度変わってくれたようで、楽屋で親馬鹿疑惑が浮上してますよ(笑)。
――講談師の家に生まれると、子どものころから講談に触れて育ったのでは?
実は、大人になるまで、父の講談を一度も聴いたことがなかったんです。実家にある父の稽古部屋も、子どもは立ち入り禁止。講談会にも、家族が来ると照れちゃうから「来るな」って。だから講談とは無縁の環境で育ってきました。学生時代は、せっかく女の子に生まれたのだからと、客室乗務員とか受付嬢とか、そういう華やかな仕事に憧れてました。
――講談にまったく触れていなかったとは意外です。それで講談師を目指そうと思ったのはなぜ?
二十歳のとき、父の講談姿を初めて見て、一目惚れしたんです。
仕事中の姿を見たことがなかっただけに、実際見たら「カッコいい!」って。そして、「私、この世界で絶対ナンバーワンになれる!」って思っちゃったんですね(笑)!
根拠はないですよ。単なる直感。ただ漠然と「講談で天下とりたいな」って思った。それが二十歳のとき。もう、若気の至りですよね。
それで父に入門したいと話しました。すると「馬鹿やろう!」と。
「お前は飽きっぽいんだから続くわけがねえ。ましてや俺の娘が入門することになるんだから、『やっぱ、やーめた』って生半可なことはできない。一生かけてやるしかないんだぞ、よく考えろ」と厳しく言われました。
でも、私の気持ちは揺るがなかった。「誰がなんと言おうと、私の気持ちは変わらない」って言ったら、向こうが根負けして。晴れて入門が許されたわけです。
――入門すると、まず何をするんですか?
はい、そもそもこの世界は、「見習い・前座・二ツ目・真打」の4つの階級に分かれています。見習いの間は、何もできず見て習うのみ。前座になると、楽屋働きの一員として駆り出されます。
この見習いから前座の4年間は、本当に辛い、ハゲるくらいしんどくて……! 毎日やめたいと思っていました。
楽屋は畳のお部屋。お茶の淹れ方ひとつ、下足の置き方ひとつ、一挙手一投足に怒られていました。師匠方が鼻をかもうとしたらゴミ箱をサッと出す、師匠が「あちいな」と言いそうな雰囲気なったら、すぐにクーラーを入れる。とにかく師匠方の先の先を読んで行動。手こそ飛んできませんでしたが、ゴミ箱を投げつけられたこともありますよ。ポットのお湯も99℃になっていると、「こんなにあちいの飲めるわけねえだろ!」って飛んできたり。
はじめは本当に恐くて恐くて。「申し訳ございません」と言いながらウルウル。そしたら「泣いてんじゃねえ! 女使ってんじゃねえよ!」ってまた怒鳴られて。
――厳しい……。そんな環境の中でも挫けずに続けることができたんですね。
本当に、もう、毎日やめたかったですよ! でも、今やめちゃうと、父や祖父の名前にキズがつく。だから這ってでも行かなきゃいけない。「もうやめたい、もうやだ!」って思いながらも、小心者だからズル休みはできなかった。本当にあの4年間は地獄のような時間でしたね。
当時は本当に消えちゃいたかったし、ぶん殴ってやりたいとも思ったけど(笑)。でも、そんなことはできないし、だったら今を精一杯生きるしかないと思った。今日をなんとか乗り切って、明日もなんとかやるっていうのを、一歩一歩繰り返していました。
――そういった下積み時代を振り返って、学んだことはありますか?
あのときは、傷つくことはたくさんありました。でもその経験が、今の人間関係に生きていると思います。
私が言われて傷ついたのが、父の名前を出されたこと。先生方に教えていただくのはありがたいのですが、「あら、貞山先生のお嬢様ですから、私がこんなことを言わなくてもおわかりいただけると思って」とか、「え? 貞山先生のお嬢様がそんな間違いなさるの?」っておっしゃる女性の先輩もいました。
――ひどい。意地悪な人ですね~(笑)。
「あらあら~、貞山先生ったら、何を教えていらっしゃったんでしょう」って。そう言われちゃうと、うちの師匠の恥にもなってしまう。それでも「本当に申し訳ありません、教えてください」って言うしかない。半ベソかきながら、トイレで涙を拭うこともぶっちゃけありました。何が嫌って、私のことをバカだ、使えないと言われるのならまだ良いけど、親父の名前を出されちゃうと、親父の恥になっちゃうのが一番辛かった。
ただ、そういう辛い経験をさせてもらったからこそ、後輩ができたときに、「この叱り方は、人が傷つくからやめよう」と考えるようになりました。
「あの人は簡単にできるのに、あなたはなんでできないのかしら?」なんて、当時は人と比べられるのがすごく悔しくて。人間的に否定されたような感じもする。その経験があるからこそ、後輩に注意するときは、人と比べることは絶対にしないようにしています。
そして後輩であっても、ひとりの人間として接すること。また口で言うだけじゃなくて、自分の姿を見せること。自分のことを棚に上げて、お説教する人もいますが、あれはよろしくない。まずは、自分がちゃんとしないと。そう思うのも、あのときの経験があってこそです。
――今になって報われる……ということですね。
そうですね。昇進して二ツ目になると、一本立ちして、ある程度自由になります。そこから講談の楽しさを感じることができるようになりました。
(編集後記)
キュートで女の子らしい雰囲気の貞鏡さん。歴史ある伝統芸能の世界で生きる女性には、瞳の中に強さを感じます。人にやさしくなれるのは、厳しい下積み時代の賜物。当時のことをしみじみ振り返る姿が印象的でした。
Text/東香名子
写真/小林航平
※後半の「すべての女性は、「女優」になって良い――“ありのまま“生きていくための「逃げ道」」は10月11日(水)に公開予定です。
講談協会所属。
昭和61年1月30日、東京都渋谷区笹塚で八代目一龍齋貞山の実子として生まれる。
父が八代目一龍齋貞山、祖父が七代目一龍齋貞山、義理の祖父が神田伯龍であり、世襲制ではない講談界に於いて初の三代続いての講談師。平成23年より神保町らくごカフェに於いて勉強会「一龍斎貞鏡の会」を始める。
平成25年より日暮里サニーホールコンサートサロンにおいて、自主興行の独演会「本日の提供は貞鏡でございます~土地に纏わる講談を読む会~」を定期的に開催中。
講談協会定席の他、学校寄席、地域寄席、仏教講談、講談バスツアー、司会など、講談の可能性を生かして多方面で活躍している。
講談師(講釈師):一龍斎 貞鏡(いちりゅうさい ていきょう):講談協会:女性講談師
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