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誰かにとっての幸せな生き方に口を挟まないで。信じるものは人それぞれ

どんな生き方が幸せなのか、どんな価値観やライフスタイルを「好き」「大切」と思うのかは、それぞれの自由。自分が信じる幸せを追求する権利があります。でも、その自分の信念の取り扱いを間違えると、誰かを傷つけてしまうことも。

誰かにとっての幸せな生き方に口を挟まないで。信じるものは人それぞれ

■占いで心が救われる人と、救われない人

「これってさあ、占いというよりカウンセリングじゃない? 救われる人いるのかな?」

炎天下の表参道を歩きながら友人は私に言った。

30代女性、10年働いてきてそろそろ転職も気になる、結婚もいつかはしたい、もう一度勉強するのもいいなと思い始めた……。そんな友人が、初めて占いに行ったそうだ。

彼女は占いに対して、「ハマる人が多いってことは、いまの状況とか、自分でも気づいてない性格やこれからの運命をバシバシ言い当てられるに違いない!」と大いに期待して行ったよう。

が、始まってみれば、現状や悩みについて細かく聞かれ、そのうえでタロットカードを並べて、出た結果に基づいてアドバイスをくれるという流れだったので、拍子抜けしてしまったらしい。

それで冒頭の台詞だ。「だってさ、あんなにこっちが悩みまで全部説明したら、もはや普通のお悩み相談て感じだよ。しかもタロットって、あれ偶然じゃない? でもこれに熱中する人もいるんだよね……不思議だわ」

そうかそうか、と聞きながら、私は過去に何度か占いに行ったときのことを思い出した。占い師それぞれの手法(タロットや手相など)によってもコミュニケーションのスタイルは異なるが、たしかに不思議な力で何もかも言い当てる、というよりはカウンセリング的な人が多かった気がする。

それでも当時一緒に占ってもらった友達は、「そっかー!」と納得していたし、私も盲目的には信じないものの、良いことを言われるとなんとなくいい気分になったものだ。

「うーん、話を聞いてもらって自分の気持ちが整理できるんじゃない? あとタロットの偶然性に人智を超えた運命を感じるとか」と私がフォローしてみると、友人は「たしかにそう思う人には合ってるかもね。でも私はもういいかな」と、自分と占いは相性悪そうと結論づけていた。

つまり、自然科学で完全に立証されているわけではない占いというものについて、この女友達のように「なんだこれ」と思う人もいれば、「なるほど早速、明日から参考にしよう!」と元気になれる人もいる。

誰かにとってはまったく心に響かないものが、他の誰かにとっては信じて行動するに値するものである、という構図が面白い。

考えてみれば、世の中にたくさんある宗教にも、同じことが言えると思う。「信じれば救われる」を説く宗教は多いが、私の知る限りではそれは科学的に立証されてはいない。

それでも信じる人にとって、その神や教義はどこまでも尊く、自分の生きる指標にすることで前向きになれる存在なのだろう。

■何かに頼るのはカッコ悪いことでも、ダメなことでもない。自分の責任のもとで行動できるなら

占いに通ったり、宗教に入信したりして、それを決断のヒントにすると、外野はやいのやいの言いがちだ。「怪しいのにハマってる」「洗脳されてるんじゃないか」「自分の意思がない」などなど。

でも、適正価格を支払って占ってもらい、それを信じることで前向きに行動できて、たとえその結果最終的にうまくいかなかったとしても、自分の責任の範囲内と納得できるなら、占いはその人の人生を豊かにしている。

宗教も、反社会的活動に参加したり、心身や財産を搾取されたりしない限り、信仰を持つことには何ら問題がない。完全に個人の自由。

そしてその信仰によって考えがクリアになって、本人が自分の責任のもとに、前向きでハッピーに生きられるなら、素晴らしいことだと思う。

堂々と、自分の思想・信条にしたがって生きればいい。

■自分が何かを信じる自由があるなら、誰かが別のことを信じる自由もある

しかし、同時に、「尊いと思うものは人によって違う」「自分にとって尊くても、他の人にとってもそうとは限らない」ということを忘れてしまうと、途端にその信仰心は刃へと形を変える。

「私が信じてる○○はこんなに素晴らしい」までは尊重されるべき個人の信念。でも、「だからあなたもこれを信じた方がいい。信じないなんておかしい」とまでなると、行き過ぎである。もはや迷惑な押し付けだ。

自分が何かを信じる自由、と同じ重さで、他の人がそれを信じない自由や、その人が信じたいものを信じる自由が存在するということ。そのことを常に頭に置いておきたい。

■一人ひとり幸せな生き方は違う。それを誰もが肯定する社会に

これを日常生活の価値観に置き換えてみると、どうだろう。
 
たとえば、「一生働くのが幸せ」「結婚こそ女の幸せ」「子供を産んでこそ幸せ」と信じる人が、自分の生き方としてそれを追求して、幸せに生きるのは素敵だ。

でもそれと同じように、「専業主婦として生きるのが幸せ」「一生独身でいたい」「子供がいない人生がいい」と信じる人の価値観だって、またその人にとって正しいし、それに従ってハッピーに生きる権利がある。

信じる生き方と幸せの因果関係なんて、それこそ科学的に実証するのは難しい。たとえ仮に90%の人に当てはまるデータが取れたとしても、自分は残り10%に入るかもしれない。

つまりそんなの誰にもわからないから、自分が良しとするそれぞれの信条を追求すればよい、という単純なことなのだ。

ところが現実には、どの生き方が優れているとか、自分と信条が違う人はおかしいとか、みんな自分と同じように信じるべきだとか、迷惑で危険な主張に出くわすことは結構ある。

そんな宗教戦争みたいなことはやめて、「あなたの生き方も私の生き方も、それぞれ良い」と当たり前にみんなが思えたらどんなに良いだろう。

お盆に墓参りをして、12月にはクリスマスを祝って、その1週間後に神社に初詣をしておみくじを引く、という宗教的に比較的自由な感覚が日本にはある。個人の生き方についても、その寛容さと共存性が広がってほしいなと願う。

吉原 由梨

ライター、コラムニスト。1984年生まれ。東大法学部卒。外資系IT企業勤務、教授秘書職を経て、現在は執筆活動をしながら夫と二人暮らし。 好きなものは週末のワイン、夢中になれる本とドラマ、ふなっしー。マッサージともふもふのガ...

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