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「ビッチ」じゃなくて「ティンカーベル」で良くない?【小野美由紀】

「ビッチ」は「性を奔放に楽しむ女」という意味で使われる。女性が自らをビッチと言うと、どこか自虐的な雰囲気が漂う。この呼名、なんとかならないものか。小野美由紀さんの連載【オンナの抜け道】#4では小野さんが考える、ビッチに代わる新しい呼称について綴ります。

「ビッチ」じゃなくて「ティンカーベル」で良くない?【小野美由紀】

■「ビッチ」という呼称にモヤモヤする

先日、酒の席で知り合いの男性編集者K氏(40代)がニヤニヤしながら「小野さんはビッチなんですかあ?」と聞いてきた。

私はにっこり笑って、「じゃあ○○さんは雄犬なんですか? 人を雌犬呼ばわりするってことは、自分も雄犬の自覚があるんですよね?」と言い返したら唇をワナワナ震わせて退席してしまった。

まったく情けない。言い返す気構えもないくせに、他人に失礼なことを聞かないでほしいのだが、それにつけても私はこの「ビッチ」と言う呼称がおおいに気になる。

ビッチ。直訳すると雌犬。
性を奔放に楽しむ女。

百歩譲って、性に奔放な女を罵りたい、嫌な男がこの俗称を使うのはいい(それだってよくないけど)けど、性に奔放な女性が自らを指して、「私、ビッチだからぁ」などと言うのを聞くと、私はなんだかモヤモヤしてしまう。

我々はいつまで、「男から与えられた借り物の名称」で自分たちを名乗らなければいけないのか?

「性を奔放に楽しむ男」を賞賛する呼び名はあっても、「性を奔放に楽しむ女」を賞賛する呼び名はない。

これだけフリーセックスが世に蔓延したこの時代に、「お付き合い」の手続きを踏んだ男以外とセックスしないのが良い女で、それ以外の女はフシダラ、っていう、男からの借り物の価値観で自らを呼ばなければいけないと言う事態に、私は憤懣やるかたない。

どんなに開き直った女でも「私、ビッチだから!」と言うときには、必ずどこか自虐めいた響きが含まれてしまう。私、本当は悪いことしてます、みたいな。

では一体、我々は彼女たちを何と呼べばいいのか? ビッチに変わる、ポジティブな彼女たちの俗称は?

■ひとりでも自由に飛べる、ティンカーベルの自由と重力

「ティンカーベル」なんて、どうだろう。

そう思いついたのは知り合いの女性と飲んでいたときだ。彼女は年収1000万を超えるフリーの売れっ子コピーライターで、「私、各広告会社の各フロアにつき一人と寝てるわよ!」と豪語するほどのスーパーハイテンション・ビッチ(まだ呼称が定まらないので、ビッチと書かせていただく。すみません)。

その彼女がビールをあおりながら言っていたのが、「ディズニーの『ピーターパン』ってさ、ウェンディがヒロインでティンカーベルが彼女の恋路を邪魔するライバル、みたいな扱いだよね? でも私はティンカーベルの方が好き! ウェンディはピーターパンがいないと飛べないし、尻が重くて途中でドスンと落ちそうだけど、ティンカーベルはひとりでスイスイ〜って飛べちゃうじゃない。自由のない女より、ひとりで飛べる女の方がよっぽど幸せよ!」

なるほど、確かに彼女はウェンディ・タイプじゃない。ティンカーベルのようにスイスイっと男の間を飛び回る腰の軽さと、ドロッとした恋愛の泥沼に落ちそうになったら、「じゃあね」とクールに去っていくかのように、見切りをつけるのが早い。

何より彼女は、男のセックスに振り回されている女特有の「くすみ」がまったくない。彼女には「ビッチ」という俗称がまるで似合わないのだ。

その自立心と頭の回転の速さ、「自分の好きにしかしないわよ」という美しき傲慢さに、賞賛を込めて「ティンカーベル」と呼びたくなる。

そう。彼女のように、現代の女はピーターパン(男)に魔法なんかかけてもらわなくたって、自分の意思で自在に飛べる。

聞く方にとっても、「私、ビッチだから!」より「私、ティンカーベルだから!」の方が100倍響きがいいのではないだろうか。

ビッチじゃなくて、ティンカーベル。

という話を別の女友達にしたら、その子が「でも、原作のピーターパンでは、ティンカーベルはすごく短命で、ピーターパンより先に死んじゃうんですよ。でも、ピーターパンは子供の心を持っているから、過去のことは忘れちゃう。10年後にウェンディと再会したピーターが『ティンカーベルはどうしたの?』って聞かれて、『え?誰それ?』って言うんですよ。なんか虚しいですよね」

なんとも衝撃的なことを教えてくれた。うーん。そのエピソードは現実と絶妙にリンクしていて確かに虚しい。

女がティンカーベルとしてフワフワ飛んでいられる期間は意外と短いのだ。ピーターパンとのキャッキャウフフの蜜月が過ぎ去った後には、孤独と責任という重力が待ち構えている。

しかし、私の周りのキレのいいティンカーベルたちは、一定期間の自由飛行を存分に楽しんだ後、たいてい最愛のパートナーや、将来性のある男とスカッと結婚、決めてるもんなあ。あら私、尻軽だったことなんて、これまでの人生で1秒たりともありませんって、すました顔して。

■真に性を奔放に楽しむ女は「呼び名」を欲していない

しかしなあ。ここまで書いてふと思ったのだが、真に奔放に性を楽しんでいる女たち自身は、本当は自分たちに付ける呼び名なんて、まったく必要としていないんじゃないだろうか。

本当に何かを楽しんでいる人間たちは、自分がどう他人から見られようが大して気にしない。自分たちが享受しているものの価値を、ようくわかっているから。

彼女たちが楽しんでいるセックスには、自己卑下も自負も、優越感も自己批判もない。自意識とは遠く遠く離れたところにある、まるきり自由で、かつ極めて個人的な歓びなのだ。だからこそ、真に性を奔放に謳歌している女たちは、自称する言葉をわざわざ持とうとしないのかもしれない。

このことは、どんなことにも逐一上下優劣をつけ、センセーショナルな呼び名で騒ぎ立てようとする男たちにはもっとも理解できず、もっとも遠い感覚かもしれないが。

たかがセックス、どう楽しんだって自由。

そう思わせる部分も含めて、私はそういうティンカーベル女に憧れる。抑圧も批判も卑下も乗り越えて、社会が性に負わせた無意味な偏見から自由になって、私もいつか、真に性を奔放に楽しむ女、になってみたいなあ。

そう思うけれど、ド・ジャパニーズな上に小さいことにくよくよしがちな私にとっては、瀬戸内寂聴さんレベルにまで行き着かないと難しそうだなあ、たぶん……。

小野 美由紀

作家。1985年東京生まれ。エッセイや紀行文をWeb・紙媒体両方で数多く執筆している。2014年、絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)15年、エッセイ『傷口から人生。~メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』(幻...

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