生きづらい世の中だけど、自分のために堂々と生きる人になりたい
生き方や働き方、もっと身近なもので言うと、ファッションやメイクもそうだ。どんなことでも、他人に迷惑をかけない範囲ならば、何を選んだっていい。生きづらい世の中、他人に無関心になる優しさを誰もが持てば、皆が少しずつ生きやすくなるんじゃないかと思う。
ワンピースを新調した。シンプルだけれど、差し色のピンクがかわいくて気に入っていた。
昔からピンク色の服を着るのは抵抗があったものの、大人になってからは徐々に着られるようになった。
それが嬉しかったというのに、「そんなピンクの服着て、モテ意識?」なんて言われれば、一気にテンションも下がるし、イラッとする。
「おしゃれをしている=モテを意識している」と、短絡的な思考を振りかざす人には困惑する。
着たいものを好きなように着ているだけなのに。自分の気分を高めるためだけに、おしゃれをしているのかもしれないのに。
■おしゃれをするのは誰のため?
いつからか他人がどういう格好をしているか気にならなくなった。
桜の時期に半袖を着ている小学生を見ると、さすがに、「おやおや、風邪引くんじゃないよ」と少し心配にはなるが。
そもそも、電車にでも乗れば個性的な格好をしている人は山ほどいるのだ。いちいち気にしていたらお互いにいくら時間があっても足りない。
みんな大して気にしていないものなのかな、と思っていたら、案外そうでもないらしい。
同性との話の中でも、「○○さんの格好は若作りしすぎ」「最近、服をたくさん新調しているから彼氏でもできたのかもしれない」などの話題が出てきて辟易する。
いっそ本人にそう言えばいいのに、コソコソと飽きもせずに言っていることこそダサい。そんな単純なことに、どうして気づかないんだろう(もちろん言われた本人も辟易するだろうけど)。
でも、こういう思考が生まれるのはきっと、おしゃれやメイクをすることは自分以外の誰かのためだ、という意識が強いからなんだろう。
好きな人に「かわいい!」って言ってもらいたいため? いや、それだってなんだかんだ言っても自分のためなのだ。
■「人の○○を嗤うな」
でも、人の視線が気になるのは見た目だけじゃないのかもしれない。
趣味だって少し変わったことをしていれば、苦笑いを浮かべられるし、「まあそういう趣味を持っている人だから仕方がないよね」と思われることだってある。
結果、自分の趣味を隠してしまう。「あの人は○○が好きだから、ちょっと変わってるよね」。そんな発言が自分以外の誰かを生きづらくさせているって、どうして気がつかないんだろう。
何を好きだっていいじゃない、と胸を張る一方で人の趣味を嗤う。そんなことをされると、誰だって自分のことを話したくなくなる。思いがけないところで嗤われると、けっこう傷ついてしまうものだ。
それならば、と上っ面の話をすれば、「心を開いてくれない」と拗ねられる。心を閉ざすように持っていったのはあなただろう、と言い返せばいいが、もはやその時点ではそんなパワーさえ失っている。
■生きづらい世の中。でも、本音では皆、思うように生きたい
どんなルールから抜け出したとしても、私たちは不自由だ。仕事、家庭、人間関係……それに何より世の中には暗黙のルール、というものがあるから。
人の格好や趣味、生きざまを嗤う人だって、自分が嗤われるのが怖いということを知っている。だからそういう人に限って、自分がどう見られているかをひどく気にしていたりする。無難な格好で本当の自分を隠し、隠し切れていない人を嗤う。
どんなことだってそうだけれど、人様に迷惑をかけない範囲ならば、何をしていたっていいじゃないか。いい意味で、他人に無関心に生きることで、生きづらさはほんの少し減るのではないだろうか。