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フランスでワインの名門ドメーヌ5代目当主となった日本人女性・ビーズ千砂さんの挑戦

フランスで歴史あるブルゴーニュワインのドメーヌ「シモン・ビーズ」の5代目当主となった日本人女性・ビーズ千砂さん。彼女がその重責を担うまでに至った経緯と現在をパリ在住でブルゴーニュワイン専門店を夫婦で営む近藤さんがレポートします。

フランスでワインの名門ドメーヌ5代目当主となった日本人女性・ビーズ千砂さんの挑戦

■大学を出て外資系金融機関からフランスのサヴィニへ

東京の閑静な住宅街に生まれ育ち、ミッション系スクールを経て入学した上智大学では'86年度ミス・ソフィアの座に輝き、外資系銀行勤務時代には国際金融市場のまっただなかで巨額のお金を動かしたこともある。

いわゆる、バブル時代を謳歌した「できる女」であった都会育ちのお嬢様は今、サヴィニという人口約1500人の小さな村で、亡くなった旦那様から引き継いだ「ドメーヌ」を切り盛りしています。

「ドメーヌ」とは、所有する農地でぶどうを栽培し、収穫した実を醸造し、それを瓶詰めにする、という、ワイン製造の全工程を一貫して行う事業体のことをいい、また、販売にも携わる場合がほとんどで、一流の「ドメーヌ」のつくるワインは、世界中の愛好家から注目を浴びる存在です。

現在のビーズ千砂さんは、フランス国内のみならず、世界に向けてもビジネスを展開する企業の経営者。だけでなく、自ら率先して畑仕事に精を出す、「畑の職人」としての顔も持っています。

ビーズ家の所有する畑から眺めるサヴィニ村の様子。

国際金融市場から国際ワイン市場へと活躍の場が移って、日々を送る環境はすっかり様変わりしたわけです。大都会東京の無機質なオフィスから、フランスの地方都市に位置する、22ヘクタールのぶどう畑へと。

こんな一大転機を人生にもたらしたきっかけは、27歳のときに突然訪れました。生涯を共にすると信じていた男性との予期せぬ別離です。この衝撃に、それまで無我夢中になって積み上げてきたキャリアへの充足感は一瞬にして吹き飛ばされ価値観は混乱し、自分がまるで自分でない、そんな奇妙な違和感に苛まれるようになってしまったのだとか。

この強い自己喪失感から自分を救い出すため、人生を仕切り直すため、30歳の誕生日を友人たちからお祝いしてもらったその足で、千砂さんはフランスへと向かいました。その名目は、ブルゴーニュ大学ワイン文化講座への1年間限定留学。そして研修先は、後に夫となるパトリックが当主を務めるドメーヌ、「シモン・ビーズ」でした。

その日から数えて、今年でちょうど、20年が過ぎたことになります。

■天災に遭遇した2013年に夫のパトリックが急逝

2013年、ブルゴーニュワインの産地として有数のコ-ト・ド・ボーヌ一帯は深刻な気象災害を被りました。サヴィニのぶどう畑も例外ではありませんでした。大雨は害虫の増殖やウイルス病伝染を招き、特大の雹(ひょう)は裸の植物を執拗に鞭打ったのです。

日の出を待つのももどかしく駆けつけてみれば、打ちのめされた幹、引き裂かれた枝葉、そして、破砕された果実の無残な有様が目の前に徐々に浮かび上がってくる。

挽回する見込みのない傷の深さに肩を落としながら、「明日からはもう来年のことを考えることにしたよ」と、早々に敗北宣言をする人も少なくなかったと聞きます。

休む間もなく繰り広げられた、こんな自然との戦いの末、かろうじて迎えることとなった10月の収穫作業開始初日、”ビーズのパトリックが心臓発作を起こして病院に担ぎ込まれた!”という知らせが村に轟き、すると、京都から訪問中の親友と自宅サロンで談笑中だった千砂さんのにこやかな顔が、一瞬にして凍りついたのです。

収穫されず枝に残ったままの、傷んだぶどうの実。

昏睡状態が続くのは、大量のモルヒネなどの劇薬投与が原因というわけではないこと。心肺の機能が停止しないのは、生命維持装置につながれているからこそ。この厳しい現実を受け入れる心の準備が整うまでに2週間。

日中は、突然畑から消えていなくなった統率者に代わって収穫隊と共に立ちまわり、夜になれば、いっけん安らかな「寝顔」とは裏腹に、日に日にどす黒く変色し、死の兆候を色濃く示し出す肉体を見守りながら……。

17日目にそっと呼吸器がはずされ、静かに逝った男性の葬儀に現れたのは、ふたりの子を抱え、異国の地で途方に暮れたか弱い未亡人ではなく、夫を旅出させる「最期の日」を見極め、関わるすべての人たちの気持ちを集結させ、そして、創立1880年にさかのぼる古いドメーヌの伝統を継承しそれを未来に繋ぐ覚悟を決めた、たくましくかつ聡明なひとりの女性の姿でした。

20年前とは違い、もうどこかに逃げたりはしません。なぜなら、サヴィニが自分の居場所であるということにまったく疑いを持っていないから。そして何よりも、自分の内に力強い生命力が宿っていることを、今はよく知っているから……。

■典型的な男社会のワインの世界に挑む日本人女性

体力を要求される農作業がベースにあるワインの世界は、近年女性当主が増えたとはいえ、典型的な男社会。ここで日本人女性、しかも未亡人が指揮をとる「シモン・ビーズ」は異彩を放ちます。

しかし、ヴォーヌ・ロマネ屈指のドメーヌ「ジャン・グリヴォ」に嫁いだ義妹マリエルが信頼のおける共同経営者となり、そして、長男ユウゴ君はいち早く母の相棒になるべしと醸造学校で勉強中。千砂さんは孤独な当主というわけではありません。

さらに彼女には、創業宝暦5年(1755年)、京都和菓子の老舗「俵屋吉富」代表取締役社長 石原 義清氏という、大きな心の支えがあるのです。

ブルゴーニュワインと京菓子。いっけんかけ離れた世界に生きながら、強く響き合うものが互いの心の中にある親友同士。石原さんが観光客のひとりとして試飲のために訪れたドメーヌで、初対面のビーズ夫妻と意気投合して以来約10年、日仏を行き来し合っては家族ぐるみの仲だとか。

実は石原さんは千砂さんのご両親と共に、パトリックが倒れたとき、偶然サヴィニに居合わせたのだそうです。が、当時のことを振り返って千砂さんは、「私のこれからの人生にとって重要となる人物を、パトリックが呼び寄せてくれていたとしか思えない。偶然なんかじゃないわ」と感慨深げに語ります。

暑い昼過ぎ、収穫隊の点呼を取りに畑に入る千砂さん。

女主人千砂さんの手作りの夕食を囲むテーブルの向こう側で、京都の上流社会に身を置く人に独特の、柔和だけれどどこかつかみどころのない、瞑想するような表情が、穏やかな声音でこんなことを語ってくれました。

「京菓子って、鍛錬を積んだ職人の繊細な手の中で再現された自然の姿なんです。川のせせらぎとか、たなびく雲とか。そして、それを口にすることによって、人と自然とが一体であるということを、人間も自然の摂理の中に組み込まれているのだということを、まさに噛みしめていただけたらいいなと思うわけです。たとえ、時に自然が、洪水や、雷という、恐ろしい形相を持って現れたとしても、ね」

「職人の世界ってとっても厳しい。だって、自分の身を削るようにして研ぎ澄まさなくてはならない創作力を求められるんだから。それがあってようやく、美の本質を表現できるようになる。そういう意味では、パトリックのつくるワインはうちの職人が作るお菓子によく似ていたんですよ。でも、千砂さんの代になって、それがもっともっと極められてきたような気がする。すごく楽しみだな、これからが……」

■亡き夫パトリックに誓う千砂さんの決意

「セルパンティエール(Serpentières:蛇のような、という意。< 蛇行する泉>に由来)の畑までパトリックに会いに行くけど、一緒に来ない?」

千砂さんの後をついて一歩外に出ると、室内との寒暖差に鼻の奥がつんと痛んだ。

月光を頼りに歩く田舎道に足もとのおぼつかない私を振り返っては、くすくす笑いながら「ぶどうってね、自分が一緒にいたいと願う相手の方に向ってぐんぐんツルを伸ばして、絡みついていくの。だけど、そればかりに夢中になってしまうと、実が育たない。

収穫間近のぶどう(ピノ・ノワール種)

だから時々、巻きひげの先を刈りながら、“こらこら、肝心の果実作りの方にもっとエネルギーを注がなくちゃダメじゃない!”って叱ってやる。そうやって、ぶどうの愛着の思いをぎゅうっと凝縮させた実で作るワインは、独りで飲むものじゃない。誰かと分かち合うためにあるのよ」。そんなことを囁く。

金融の世界で培った経営センスに、「天・地・人のエネルギーを循環させてワインを作る」という独自の信念が同居する。月の満ち欠けを読み、土中の微生物を覚醒させ、ぶどうに語りかける。そんなアプローチを試みる日本人女性が、未来の当主のためにつないでいく「ドメーヌ シモン・ビーズ」。

千砂さんのこれからを楽しみにしているのは、京都の親友ただひとりだけでは決してない。

ありし日のパトリックを囲んで。長男ユウゴ君と石原さん。

Photo/Hiroki TAGMA

ビーズ千砂さんプロフィール

ブルゴーニュワインのドメーヌ「シモン・ビーズ」5代目当主。1967年東京生まれ。
上智大学卒業後、外資系金融機関で仕事をしていたが、30歳からブルゴーニュ大学でワイン文化講座を受講するために留学。研修先となったのが、夫となったパトリックさんが当主を務めるドメーヌ、「シモン・ビーズ」。1998年に結婚し、二児の母でもある。長男のユウゴ君は18歳。長女のナスカちゃんは17歳。ユウゴ君は次期当主を目指し、現在アルザスのドメーヌで修行中です。
ご主人のパトリックさんが突然他界した2013年より、義妹マリエルを共同経営者に迎え、パトリックの遺志を継いで5代目当主として、品質の高いブルゴーニュワインを世界に送り出している。
ビーズ千砂さんが、旧姓の伊藤千砂名で出版した小説『ROUGE「アカ」』は アカデミー・デュ・ヴァン青山校カーヴ・ド・ラ・マドレーヌ(TEL03-3486-1038)で販売中。

近藤 千雅子

パリにてブルゴーニュワイン専門店経営 東京出身。武蔵野美術大学出身。大手広告代理店にて電機メーカー、飲料メーカーなどのPRを担当。2002年渡仏。パリ第一大学人間科学部哲学科第一学年入学。親子ほど年の離れたフランス人達の同...

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