悲劇のヒロインになりたがる病にかかった人たち
不幸自慢をする人は少なくない。人の不幸は蜜の味というけれど、自分の不幸話をするときはなんともいえない快感に襲われる。そんな経験をしたことはないだろうか。不幸な話というのは、本当のところは自分がかわいくて仕方がないときに、ついしてしまうものなのかもしれない。
「あなたと友達になりたくない」と言われたことがある。後にも先にも10代の頃に一度だけ。
理由を聞くと「能天気で幸せそうだから」というものだった。
なぜか「能天気そう」と言われる機会が多いのだけれど、丸顔だからだろうか、丸いものってなんだか無防備に見えるものね、意外と後先考えず、っていうことはないんだけどな。と自分を慰めている。
でも、幸せそうだから友達になりたくない、と言われたのはなかなかにショックだった。その頃、特別自分が幸せだと思ったこともなかったけれど、幸せだと友達もできないのだろうか、とその一言でとても悲しい気持ちになった。
それからというもの、なんとなく自分からは「幸せだ」と言わないようになってしまった。
■不幸自慢は連鎖する
女性同士で集まって話をしていると、1人が嫌だったことや不幸な話をすると、我こそが! とそれぞれの不幸話が始まった経験はないだろうか。
こんな悪い男と付き合ってしまった、いやまだそれはマシなほうだ、私が付き合っていた男なんて……と不幸なマウンティング合戦を気づかないうちに繰り広げている。
でも、その不幸プレゼンに何のメリットがあるんだろう、といつも不思議になる。不幸自慢をし合ったところで、誰も幸せになれないのに。不幸せの一等賞が決まって、「よかった、私この人よりも幸せだ」と安心するんだろうか。
そんなことはない。むしろ、「目の間にいるこの人よりも不幸なエピソードはないだろうか」と、自らの記憶を遡りながら、探してしまっているのではないだろうか。
そもそもどうして不幸になろうとするのか。「悲劇のヒロイン」という言葉があるけれど、不幸を持っていると、主役になりやすいのだろうか。そんな物語のヒロインに進んでなりたいものなのだろうか。
■不幸自慢はしても、幸せ自慢はしない心理
不幸自慢とは対照的に、幸せ自慢をする人はいない気がする。
幸せな話というのは話したいけど、聞きたくない。「相手もそっか、よかったね」くらいしか反応できない。
そして、幸せな話は時と場合を選ぶ。ちょっとした小話として自分の幸せな話はできないのだ。
もしかしたら、今、相手は不幸かもしれない。自分の幸せな話を聞いて嫌な思いをするかもしれない。
そうなると口を閉ざす。
でも、どうして幸せな話をすると相手が不愉快な気分になるかもしれない、と考えてしまうのだろう。私たちは、相手も同じように幸せな話をしてくれるとは想像できない。
■「私、幸せなの」と言えない怖さ
「今、私は幸せです」
そう言える相手は少ない。
大半の人には自分の不幸話を聞かせてしまいがちだ。それは「不幸話なら会話が続く」と思っているからかもしれない。
幸せな人の話は問題がない、もしくは何かしらの問題があったとしてもすでに解決済みだ。
しかし、不幸な話というのは多くが未解決で、不幸から脱するためにあれこれと頭を悩ませている最中だ。だからこそアドバイスもしやすい。
そして、自分の話もしやすい。過去の自分の幸せだった話はしないけど、不幸だった話はする。
それでいいのだろうか。不幸自慢をしてしまう心理は、さらに不幸を呼び寄せてしまっている気がしてならない。
幸せだよ。
そう相手を選ばず、臆せずにいつでも言える自分になれるまで、本当の幸せにはまだ、遠い。