Photo/片渕ゆり(@yuriponzuu)
『そのとき、J-POPが流れた』のバックナンバー
#1 3月の約束と、6月のアーモンド。(レミオロメン『3月9日』)
#2 真夏の果実がはじけたら、(サザンオールスターズ『真夏の果実』)
#3 「何者か」になるまでは(あいみょん『愛を知るまでは』)
#4 つまりエンド&スタート(ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ループ&ループ』)
昔から何をするのも人より遅い子どもだった。それでも一生懸命にやっていれば、ときどき思いがけず誰かを驚かすことができるのかもしれない――。エッセイスト中前結花さんがJ-POPにまつわるエピソードをつづる連載「そのとき、J-POPが流れた」、最終回となる第5回は、竹内まりやの『すてきなホリディ』。
年末はさみしい。賑やかで楽しげだけれど、今年もこれでおしまいなのだ。
のろのろと準備体操をしていたら、知らぬ間に体育祭はすっかり終わってしまっていたような。なんだか、わたしにとってはそんな1年だった。
会社を辞めて半年が経つのに、まだ今ひとつ思い切った行動ができていないせいだろうか。
「もっとたくさんやりたいことがあったのになあ」
と、自分をじれったく思う。
思えば、わたしは昔から何をするのも人より遅い子どもだった。
たくさんの従兄弟たちに囲まれても、最後に余ったお菓子をいつまでも食べていたし、お正月は決まって、見かねた大人に
「ゆかちゃんは、ここ」
と座布団に座らされる。そしてその頃にはすでに従兄弟たちの『ドラえもん』の絵柄のカルタ勝負は始まっていた。もちろん、手を伸ばすのも遅いものだから、どんな絵柄も“わたしのもの”にはならない。
そんなわたしを父は「のろまだ」と言ったし、幼稚園や小学校で出会う同級生のお母さんたちは「おっとりしていていいわね」と笑った。通信簿には毎年毎年、判でも捺したように「とてもマイペースで、」「のんびりしているせいで、」ばかり書いてある。
大人のひとはあれこれと言うものだなあ、とやっぱりわたしはすこしじれったく思っていた。
それでも母は、
「できないことがあろうと、遅かろうと、そんなに困らないから大丈夫。助けてもらえるかが大事」
そんなことを言った。
「ゆかちゃんは助けてもらえる才能があるから、満点よ」
母が常に贔屓に満ちた点数をくれる人であったことは、のろまなわたしにとっては大きな救いだった。
たしかに「家庭科」の授業の課題だった手作りエプロンも、結局隣の席の男の子にすべて作ってもらったように思う。タグには「マイ エプロン」と書きなさい、と言われていたのに「藤井くんありがとう」と書いたものだから、先生にはずいぶん呆れられたけれど。
何をさせても時間がかかる。いつも最後の最後まで格闘している。
それでもさほど悩まされてこなかったのは、きっと母の言うとおりあたたかい誰かがよく手を差し伸べてくれたからでもあろう。そして何よりもあれこれとお小言を言われるのは、思えば22歳までの辛抱だったからかもしれない。
もっとも、これは最近気づいたことなのだけれど。
社会人1年目までは、柄にもなくスーツなんかを着て営業担当をしていたものだから、
「早く!」
「間に合うのか!」
なんて急かされてばかりいた。けれど、希望の企画職に異動してからというもの、褒められることはあっても誰かに注意をされるようなことはまるでなくなってしまった。
わたしは「なあんだ」と思う。新しい上司はいつも、
「素晴らしい」「最高だよ」
と言ってくれたし、もう「みんなで一斉に同じことに取り組み、スピードで競い合うレース」に参加させられることなどなくなったのだ。
そのあとも、やりたい仕事を選んで、やりたいように生きてきた。
どんな場所でも、どちらかと言えばよく褒められる。今もやっぱり原稿を書くのがずいぶん遅い書き手ではあるけれど、「みんな一緒」というルールの世界から抜け出し「大人になれたこと」は、わたしの人生の中でもいちばんうれしい出来事だったように思う。
「のろまだ!」なんて言われない心地よい場所を選んできた、そんな感覚が常にあったのだ。
けれど、一方ですこしさみしく思うこともある。
大人になってしまえば多くの人が、良くも悪くも叱られたり注意を受けることなど余程のことがない限りなくなってしまう、ということをなんだか身をもって確信しはじめている……そんな感覚があるからだ。
「遅い!」「間違っている!」などとは誰からも言われることのないこの不安について、これまたずいぶん遅いけれど、このところようやく考えている。
それはもちろん30も越えると、自分で水の合う場所を見つけることができるから——、得意な場所で泳ぎ始めるから—— という理由も多少あろうと思う。けれどきっと多くの場合は「けしからん!」どころか「良くないかもしれないな」程度の感触で、相手は苦言を口にすることもなくサラリと離れ、二度とは交わることなどしてくれないから——。ということがほとんどなのだろう。
「教わる」「勘弁してもらう」というチケットの期限はとうに切れてしまったのだ。
そして、もしかすると「よくやったね」「やるじゃないか」と褒めてもられることもまた、ある程度の年齢を過ぎれば、徐々に減ってくるものなのかしら、ということにも気づきはじめてしまう。
幸い、わたしは文章を書く仕事をしているから「良かったですよ」「おもしろかったです」だなんて編集担当の方にありがたい言葉をもらうことや、読者の方から感想をいただくことがある。それを「溶かすまい」とゆっくりゆっくり飴玉でも舐めるように味わい尽くしては、なんとかかんとか生きている。他のことで褒められることなんて、たったのひとつもないのだから。日記帳にこっそりと書いて抱きしめるほどにうれしいことだ。
けれど他の人は、はたしてどうなのだろうか。
「部下を褒めましょう」「後輩を労いましょう」だなんてよく言われるけれど、それじゃあその上司や先輩は誰かにちゃんと褒めてもらえるかしら、とぼんやり思う。
大人はみんな、期限切れのチケットばかりを持ってポツポツと家路を帰るのだろうか。もしそうであれば、それはどんなにさみしいことだろう。
胸の入り口が暗く冷たいとき、灯してあたためてくれるのは「ひとりじゃない」ということと「あなたがどんなにか必要な人か」という褒め言葉だけなのに。
だから、わたしはもらってうれしかった言葉は必ずメモに残す。忘れないよう、胸の奥まで冷えてしまわないようにだ。
それは日記帳の片隅だけれど、どれもとびっきりありがたいものばかりだった。その言葉たちが、いつかの自分をきっと支えてくれるのだ。
中でもわたしを本当によく励ましてくれる特別な言葉があって、それは2年前に手紙として渡されたものだった。
ノートに挟んで何度も何度も繰り返し読んだ。そうすることでなんとか持ち堪え、ここまでどうにかやってこれた……そんな魔法のキャンディがこの世にはあるのだ。
2年前の年末のある日、わたしはこっそりとひとり会議室に入って、扉を閉めた。そのまま壁に身を任せてしゃがみ込んで、丁寧に閉じられた便箋を開けてしまう。
きっと送り主は、
「家に帰ってから、読んでね」
そう念じながらすれ違いざま、わたしの机に手紙を置いていったに違いない。それなのに、わたしにはどうにも我慢することができなかったのだ。その人は入社した頃からお世話になっていた上司だった。
ときどき、わたしにはその人の考えていることが、手に取るようにわかることがあった。だけど「今こんな気持ちでいるのだろうな」と勝手にこちらが案じているようには、どうしても思えない。
それはいつも、スッと違和感なくわたしの頭にも浮かぶように伝わる。そして同じことを胸で思ったり、ごく稀には「どうしてわたしと違うんだろう?」とさみしく思ったりもした。
いずれにしても、「ああ、本当はこうしたいのだろうな」とわかったり、早く同じ想いを共有したくてわたしはいつも「良いこと思いつきました! 聞いてください!」「これ見てください!」とその人のもとへ走ってばかりだった。
こんなに「分かちあえる」「分かち合いたい」そう思える同僚ははじめてだったのだ。
けれど。
考えていることが少しわかったからと言って、それがいったい何だと言うのだろう。
その人は今日、この会社を去ってしまうのだ。
そっと開くと、手紙はやさしくきれいな字で
「ありがとうをきちんと言葉に記した方が良い気がして書くことにしました」
から始まっていた。あとは、ただ涙がぽつぽつと顎下から落ちるばっかりだ。
その中には「思い出話」や「がんばれよ」といった内容は一切なくて、ただただ「わたしの存在がどんなものであったか」について3枚にわたって書き記されていたのだ。
その会社にわたしが入社したのは、5年前のことだ。当時フリーランスでライターをしていたわたしは、
「もっと明確にだれかの役に立てたらいいのに」
とぼんやり考えながら、毎日を過ごしていた。
そんなとき、
「こんなサービスに携われたらなあ」
と思える会社に出会い、とある社員インタビューの記事を読んだ。そして、
「次は、この人の役に立とう」
と決めて、面接をしてもらうことにしたのだった。すこし歳上のメガネの男性だ。実物に会うと、思ったとおりの声と物腰のやわらかさで、なおのこと、
「よし、この人だな」
とわたしは強く思った。考え方が、言葉の選び方が、すごく好きだったのだ。
入社してからも、その人の印象か変わることはなかった。
いつも自然で、呆れるくらいに慎重で丁寧で。物腰同様、考え方もしなやかでやわらかく、時にはジョークで大勢を笑わせたり、マイク越しに素朴な言葉で皆を泣かせたり、なぜだか派手な女装をしたりもした。
二児の父であり、ずいぶん偉い役職であったけれど、わたしにはなんだか気の置けない友だちのようでもあった。
その人とは月に一度必ずランチに出かけた。いつも
「こんな企画があったらいいね」
「こんな記事ができないかな」
そう、思い思いに話しながらいろんなものを食べた。
食べていたつもりだったけれど、わたしは完食していても、その人は赤ちゃんの手のひらぐらいの量しか食べていない。
いつも次の予定を気にしていて、また口に運ぶことよりも聴くことを優先してくれる、とてもとても繊細な人だった。
「なぜ、少ししか食べない?」
と背の高い、外国人の店員さんに監視されていたこともあった。
「あ、はい、すみません!」
また赤ちゃんのこぶしぐらいの量を頬張りながら、すらりと格好のいいウェイターさんに謝っている。わたしは「不思議な光景だなあ」と、とても新鮮な気持ちでその様子を見ていた。
そして。
あるとき呼び出され、「今年の末で退職することにするね」そう告げられる日が訪れた。もっと新しいことに挑戦したいと言う上司を、わたしは気持ちよく送り出すことができずに、駄々をこねるように
「それなら、わたしも辞めます」
なんて、大人気なく机の角をぎゅっと握りながら繰り返しては困らせた。帰りの電車では毎日すすり泣いた。
「送別会はいらないから」
「手紙もプレゼントもいらないからね」
そんなことを言う人だったから、なおさら気持ちの行き場に困った。
仕事で何かうれしいことがあるといつもいちばんに伝えたかったこと、一緒に喜びたくてよくがんばりすぎてしまったこと、まとまりのない話も何時間でも聴いてくれて、その人がいるから自分の考えていることがよくわかったこと、「おかしい」と思えばいくらでも意見させてくれ、いつもそっと見ていてくれ、どんなにか救われていたか。あなたがいたからここへ来たのです、ということ。
伝える機会のない言葉たちが、胸の中をあちらへこちらへと彷徨って、それがいつも電車で涙になった。仕方なく、
「これ、クリスマスプレゼントです」
と小さなお化けの人形をあげた。
「……ありがとう(笑)」
どうやらまた困らせてしまったようだった。
なのに、これだけ悩ませておいて、その人は最終出社日、通りすがりにあっさりとわたしに手紙を渡していったのだ。これじゃあ、まるで二度と会えないみたいじゃないか。
そして話は少し前に戻る。
わたしはこっそりとひとり会議室に入って、扉を閉めた。そのまま壁に身を任せてしゃがみ込んで、「帰って読むべきだろう」とわかっていて、丁寧に閉じられた便箋を開けてしまう。それは、
「ありがとうをきちんと言葉に記した方が良い気がして書くことにしました」
から始まっていた。そして、わたしを胸を震えさせたのはこんな喩えだ。
「やりたかったことをちゃんとわかってくれる人と出会えた何ものにも代えがたい喜びを感じました。映画『マイ・インターン』で、オフィスの中央にあるデスクにずっと積み上げられていた荷物をロバート・デ・ニーロが片付けてスッキリさせた状態。あれに遭遇したときのアン・ハサウェイの気持ちを思い浮かべてください。『そうそう、そういうことなのよ!』と。こういった類の共感は、ありそうでそうそうあるものではないことを僕は知っています」
大好きな映画の大好きなシーンだった。
劇中で、新進気鋭のベンチャー企業の社長である多忙なジュールズ(アン・ハサウェイ)。彼女が本当はずっと気にかけていた乱雑に置かれた荷物たちを、シルバーインターンとしてやって来たベン(ロバート・デ・ニーロ)が何も言わずにそっと仕分けて片付けておくのだ。
「どうして、あの人わかってくれるの」
とジュールズは驚く。「そうそう、そういうことなのよ!」と。
そしてそれはわたしにしても同じことだった。
大きなことから小さなことまで、いつもそんなふうに気づいてくれているボスの夢の手伝いがしたかった。そして上司もまた同様に「そうそう、そういうことなのよ!」という仕事をたくさんしてくれる人だった。もちろん本当のわたしは、片付け下手で、ロバート・デ・ニーロ演じる彼のように上品な老紳士ではないけれど。これほどうれしい言葉をわたしは他に知らなかった。
3年とちょっと。ほんのひとときでも、わたしが彼のロバート・デ・ニーロになれていたなら、わたしはこんなに悲しまなくてもいいのだな、と思った。
それはその先もずっと、さみしいとき、辛いとき、コロコロと何度でも口の中で転がせばやさしく甘い飴玉になる、数日遅れのクリスマスプレゼントだった。