『そのとき、J-POPが流れた』のバックナンバー
#1 3月の約束と、6月のアーモンド。(レミオロメン『3月9日』)
#2 真夏の果実がはじけたら、(サザンオールスターズ『真夏の果実』)
#3 「何者か」になるまでは(あいみょん『愛を知るまでは』)
この部屋を「自分の城」にして5年半。ついに今日ここを出て、ひとり暮らしを卒業する。そんな夜に思うことは――。エッセイスト中前結花さんがJ-POPにまつわるエピソードをつづる連載「そのとき、J-POPが流れた」、第4回はASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ループ&ループ』。
息を詰めるようにして、じっとカーテン越しに道路を見つめている。
やがて、60センチ四方の小さな小さなこたつは収集車の中に詰められ、今年買ったばかりの小さな文庫棚と一緒に連れられていってしまった。
その小さなこたつと段ボールひとつ分のお気に入りの本だけを持って、兵庫県の山奥から東京に出てきたのは、11年前のことだ。
だけどそんなことなど、ごみ収集のおじさんは知らない。
だから、どんなふうに扱われてしまっても仕方のないものだと覚悟はしていたのだけど、特にわたしの目の前でそれは乱暴に扱われることはなかった。ただ「ひょい」と持ち上げられ、「ひょい」と行儀よく積まれて、なんにも知らないみたいに、あのこたつはいってしまったのだ。
ドナドナドナ。
メロディさえあやふやな童謡を自然と頭の中で思い出す。
そしてそのとき、わたしの中でひとつの「何か」が終わったのだとわかった。
いったいこの物語は、いま第何章ほどまで進んでいるのか。そこまでは上手にわからなかった。けれどとにかくこの引越しで「きっとページはめくられるのだろうな」ということだけはつかめたような、そんな気がする。
生きていると、何度となくそんな瞬間があることを、もう子どもでないわたしは十分に気付いているのだった。
思えば、この部屋を「自分の城」にして5年半。淡いブルーの腰壁に、淡いブルーのドアはいつ見てもうっとりとしたし、高い天井でくるくると回るシーリングファンにいつも見守られ、窓際のカウンタ—の植物は本当によく育った。わたしはこの部屋がとてもとても好きだった。
あの春、鍵の受け渡しを終えたとき。
まだ何もない空っぽのこの部屋を、特に理由なくただ眺めにきた夜のこともわたしは忘れない。そうっとひとり足を踏み入れ「ここで生活をするんだ……」と部屋全体を見回すと、それはとてもとても不思議な心地がした。
よくそういうとき、わたしは「主人公の気分」とそれを呼んだりする。自分にはどこか似つかわしくないような、脇役では抱えきれないような。そんな出来事と出会ったとき、わたしはいつもそれを思うのだった。
「脇役は、こんな素敵な部屋には住まないもの」
そう考えれば、この部屋に越してくるきっかけとなった苦しい恋の終わりさえ、なんだか必要な御膳立てであったかのように思えてくる。
けれどそんなふうに出会ったドラマチックなこの部屋は、いまだもうすぐわたしがここを去ることを知らずにいた。
「出てくんだよ」
小さくつぶやいてみても、相変わらずシーリングファンはゆったり静かに回りながらわたしを見下ろしているだけだった。
「わたしのものじゃなくなるのよ」
今度は半分自分に言い聞かせたような口調になる。すると、みるみるうちにわたしの機嫌は悪くなった。そして、目尻から生温い涙つぶが耳に向かってこぼれる。
「出てくのかあ……」
次のページを選んだのは他の誰でもない自分であるはずなのに、ずいぶんと未練がましいものだなあと呆れてしまう。呆れてしまうけれど、それほどまでにやっぱりこの部屋のことが、わたしはたまらなく好きだったのだ。
実家も地元もないわたしにとって、この部屋だけがゆりかごのようにわたしを甘やかし眠らせてくれる場所だった。ほんの唯一のわたしの「帰る場所」であったのだ。
好きなときに戻り、好きなものを食べ、好きな場所で好きなようにして眠った。「行きたいところ」が見つかれば、赴くままに好きな格好で出かける。散らかしたって、写真に収めたいぐらい飾り込んだって一向に構わない。
そこは誰に邪魔をされることもないわたしだけの宇宙であったから、どこもかしこもわたししか知らない宝物で埋めつくされていた。そして奮発して買った家具やちょっと贅沢な家電たちはまた、一つひとつが「東京で一生懸命がんばった」ことの証でもあったのだ。
けれど、今日まで揃えたそんな家具たちも新居には必要がないものだから、すべてここでお別れとなる。本音を言えばたまらなくさみしい。そう、さみしくて仕方がなかった。
どれにもこの上なく愛着がある。けれどもやはり東京へと「連れてきた」あのこたつは、そのあまりに小さいフォルムも含めて、なんだか特別にとても大事な何かを象徴しているように思えた。
もう、今のわたしには似合わないあのサイズとデザイン。用意してくれたもう亡い母の11年前の気遣い。これからはひとりじゃなくなるということ。いろんなことが、ただ一生懸命「過去」になろうともがいている。
彼とのふたり暮らしは、おおかた順調に決まった。
「いつか一緒に住めたらいいねえ」
が、やがて
「そろそろ部屋を探さなくちゃねえ」
になり、いくつか部屋を見比べたあと、
「この部屋で決めようか」
ととても自然な流れで、この秋そうすることになった。
そこに、なんの不満もない。
もちろん新しい生活を待ち遠しくも思う。
きれいな新築のマンションのカウンターキッチンは使い勝手良く作り込まれていて、ダイニングには、ふたりで選んだお気に入りのペンダントライトを吊るすことにした。
いくつもの中から選んだやさしい色のカーテンを、入居前からピンと彼が窓に取り付けてくれ、
「おお、完璧だね」
と気持ちが高まって、思わずはしゃいでしまう。
こちらもこちらでまた、抱えきれるか心配なほどの「主人公」の暮らしが用意されているのだった。
それに今のわたしのひとり暮らしは、と言えば、部屋のデザインこそあの頃のままではあるけれど、やはりわたしには荷が重かったのか、すっかり心地よさと「ひとりであること」に怠けてしまい、主人公からは程遠く成り下がっていた。床には本が散らばり、ソファには洋服が高く積まれている。
これからまた、その暮らしを一生懸命「主人公」のものへと持ち上げなければならない。
きっと、何年も前に録画したバラエティを眺めながら、ムシャムシャとひとり食べる夕飯はうんと減るだろう。思いつきで近所の映画館のレイトショーへと駆け込み、帰宅すれば明け方まで「クチコミ」を見ながら余韻に浸る、そんな夜もなくなるはずだ。
限界まで働き詰めて、ダイブしたクッションに埋もれながら朝を迎える……そんなわたしはもうどこにも居なくなってしまうのかもしれない。
そう思うと、不必要でだらしのないループからようやく助け出させるようでもあるし、はぐれてしまうのは家具だけでなく、今日までの自由気ままな生活や、“自分らしい自分”であるのかもしれないと思うのだった。
荷造りをしながら、すこし大きな音でASIAN KUNG-FU GENERATIONを聞いた。
高校、大学時代と目まぐるしく環境が変わるとき、いつもそばにはアジカンの曲があった。
思えば、「実家がない」ということがずっとずっとコンプレックスだった。
わたしが上京したとき、時を同じくして両親はふたりで住み込みでマンションの管理人を始めた。そして愛する母が他界し、今は父がひとりでそれを切り盛りしている。
わたしには帰る場所がなかった。「おかえり」と迎え入れてくれる場所がなかった。だからこそ「住む場所」「家」にはずいぶんと執着したし、こだわりたかったのだ。
自分の居場所を、どこよりも落ち着ける場所を、わたしには手に入れる必要があった。
そして、その部屋を運営できている限り、お気に入りのものをすぐに手にできる限り。わたしは東京という街で「ひとりで立つ」ことができているのだ、というそれは大きな拠り所にもなっていた。
この家は。この家のものたちは。
長らく何よりも大切で、何よりも手放してはいけない、「わたし自身」だったのかもしれない。
そんなことを考えていたら、すべて荷物が運び出されてしまった。
あの夜と同じ空っぽの部屋の中で、やはり今日もゆったりとおおらかに回るシーリングファンを見つめている。さみしい、とは思わない。ただ、今はまだ少し不思議な想いで、これまでこの部屋で起きたこと、この街で出会った出来事をふっと思い出しては、自分でも「よく覚えてるなあ」と関心し、一つひとつがたまらなく懐かしくなった。