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真夏の果実がはじけたら、

花火大会の夕方、土手をそろりそろりと下り切ったところで『赤い実はじけた』音を聞いた――。サザンオールスターズの名曲『真夏の果実』を聴くと思い出す、ひと夏の恋のこと。エッセイスト中前結花さんがJ-POPにまつわるエピソードをつづる連載「そのとき、J-POPが流れた」、第2回です。

真夏の果実がはじけたら、

『赤い実はじけた』
と聞いて、どのくらいの人が「ああ、あれね」とわかってくれるだろうか。

そのとき、わたしは自分の下駄の鼻緒をじっと見ながら、薄暗くなりかけた夕方の土手をそろりそろりと浴衣姿で下っていた。それを下り切ったところでのことだ。

「パチン!」と赤い実のはじける音が耳の奥底、もっと深い胸の近くで、本当に聞こえたのだから驚いた。
ずいぶん大きな破裂音だった。
8月が来ると、わたしはこのことをいつもぼんやりと思い出す。

『赤い実はじけた』とは、小学校6年生のとき国語の教科書で出会った短編物語のタイトルだ。名木田恵子さんが小学生のために書き下ろしたその物語は、
“クラスメイトである哲夫が実家の魚屋を手伝っている姿を目にして、小学6年生の綾子の胸の中で、「パチン」と赤い実のような何かがはじける。けれど、それがはたして何であるのか、本人にもわからない。”
という初恋のストーリーだった。自宅に持ち帰り「おもしろいよ」と母に読ませると、
「ひゃあ、素敵。“好き”ってこういうことやったねえ。ずっと覚えときね」
そう言いながら、にこにことしていた。

――胸の中で、赤い実がパチンとはじける。

いま思えば、これほどに「ぴたり」「しっくり」とくる、甘くて可愛い表現が他にあるだろうか。
「ああ、だめだ、好きになってしまった」
そう途方に暮れるような、もう取り返しのつかないような……そんな様子までもが、見事に言い当てられている気がする。

それからというもの。わたしは自分の胸の中にある「赤い実」について、その存在を忘れたことがなかった。あのときの母の口ぶりからして、なんだか
「それは人生に一、二度あるかないかの、とても貴重な体験なのではないか」
「大人になれば、赤い実は自然と無くなってしまうものなのではないか」
「そして、そんな感覚は10代も過ぎれば忘れてしまうのではなかろうか」
なんて想像していたのだけれど、少なくともわたしに限っては特にそういうことはないようだった。

思春期を迎え、学生を卒業して社会人になり。20代をずいぶん自由に、30歳を迎えてもまだまだ気ままに過ごしているわたしの胸では、何度となくそんな赤い実がはじけた。もちろん大きいもの小さいもの、その種類はいくつかあったけれど。

マイナス100度の太陽みたいに
身体を湿らす恋をして
めまいがしそうな真夏の果実は
今でも心に咲いている

サザンオールスターズ『真夏の果実』



桑田さんは「赤い実」のことを歌っているのかもしれない、と想像したことさえある。それは、幾度となく咲いてははじける胸の中の不思議な果実なのだ。

あるときは授業中の教室で、またあるときは居酒屋でミスチルの曲が流れたときに。そして、その夜は浴衣と下駄でちょうど土手を下り終えたとき、わたしの胸ではやっぱり「パチン!」と赤い実がはじけたのだった。
数年前の出来事だ。

8月に誕生日を迎えるわたしは花火と浴衣がなによりも好きで、その年の誕生日は「まだ恋人ではないけれど、もうすぐ恋人になるのかもしれないな」という間柄の人に「花火に行きませんか」と誘ってもらったのだった。
「ひと目会いたいから」とわざわざ最寄りの駅までお菓子を届けに来てくれたり、自分は下戸なのに「この店は、お酒が美味しいらしいから」と調べて連れ出してくれるような人だった。
「このまま、お付き合いするのだろうか」
とわたしは思っていた。
「いずれお付き合いしたいです」
と彼は言った。
けれど、それからしばらく時が経っても、相変わらず
「いずれお付き合いしたいので、好いてもらえるように頑張ります」
と言って、彼はわたしを食事や映画に誘い続けた。

わたしは思う。“いずれ”というのは、はたしていつなのだろうか。そして、その“いずれ”と“いま”では何かが変わるのだろうか。それでも彼がそう言うものだから、わたしはその度に何とも言えずに「へへへ」だとか、「んほほ」だとか曖昧な返事を繰り返していた。

そして、その人がついに、なんだか意味ありげに
「大事な日だから、花火に行きませんか」
そう言ってくれたのだ。慣れないなりにも、「これはつまり、あれだろう」とわたしは確信する。「あれなのだから」と新しい髪飾りも買ったし、「あれだしな」とちょっといい匂いのするヘアスプレーを多めにふりかけて出かけた。

けれど、花火の会場からさほど近くないカフェで、彼はずいぶん長く趣味の釣りの話をしてくれていた。
「まだ行かなくて大丈夫ですか」
「そろそろ時間大丈夫ですかね」
と、足元で下駄の鼻緒をいじくりながら、わたしは何度となく尋ねる。
「もう少ししたら行きましょうか」
「外は、暑いからね」
彼はずいぶんと落ち着き払っている。

“もう少し”しなくても行けばいいじゃないの。どのみち8月だもの、気温は高い。急いで向かう方が汗だくになってしまうだろう。

こんなにのんびりしたわたしをヤキモキさせるなんて、とんだ強者と出会ったものだと思った。思えば、わたしは彼が「よし」と立ち上がるのをずっとずっと待ってきた気がする。
「じゃあ、ジブリだと何が好きですか?」
だめだ、今度は宮崎駿の話が始まってしまった。
「……たくさんありますけど、『ハウルの動く城』が好きかな。ハウルがかっこいいです。特にいちばん最初の。手を引いて歩いて『上手だ』って言うところ……」
「ああ、木村拓哉の声で『上手だ』は、男でもかっこいいと思ったなあ」
なんだかわたしよりも惚れ惚れとして、彼はそう答えてくれる。その表情に、思わずあの台詞もいい、この台詞もいい、と次々に同意を求めてしまいそうになった。
しかし、今夜は花火大会なのだ。
「さすがに、そろそろ……場所も埋まっちゃうし……」
そう口にしたところでようやく彼は承知してくれ、出発することとなる。

「タクシーで行きましょう」
と言って彼は歩きはじめた。
「タクシーって、どこまで向かうんですか?」
心配になって尋ねると、
「限りなく近いところまで車で行きましょう。浴衣では歩くの大変でしょうから」
そう言って、ひとつのタクシーの前まで案内してくれた。どうやら、呼び寄せてくれていたようだ。スマホで地図を見せながら、「この辺まで」と運転手さんに伝える。「ハイハイ」と運転手さんはアクセルを踏みはじめたけれど、この人混みの中そんなに都合よく車は進むのだろうか。運転手さんが言う。
「土手はもう、お花見みたいに朝から席取りの人でいっぱいでね。手前の植え込みのところで見る人も多いけど、あそこは座ってたら虫がいっぱい上ってくるよ。お姉さん浴衣だから、気をつけてね」
彼と顔を見合わせ、ぎょっとした。最悪のケースを想定しようと、想像でき得る限りでいちばん気持ちの悪い虫が足元を這い上がるのを思い浮かべると、全身の毛穴がゾワゾワとして震えた。恐らくそこから、わたしの顔から表情が消えてしまったのだろうと思う。
「ああ、ここで大丈夫です」
彼はそう言うと、手を引いてタクシーから降ろしてくれた。そして、
「実は、良い席を用意してあるんです。着くまで内緒にしておきたかったんだけど、虫の話とか聞いて心配になっちゃったでしょ。安心させたいので、先に言っちゃいました。ごめんなさい」
と言うのだ。そして長蛇の列をすいすいと抜けて、「優待席」という入り口に辿り着く。なぜ“優待”などしてもらえるのか、わたしには皆目見当がつかなかったけれど、
「誕生日だからかな?」
彼はなんだかお芝居めいた言い方をして、係の人にチケットを渡して歩きはじめる。そして、
「普段は邪魔なだけだけど、こういうとき便利だよね(笑)」
と自分の身長を指すのだ。たしかに、187cmだったか189cmだったかの彼は人混みの中で頭がひとつ抜けていて、とてもはぐれそうになかった。
――これは夢だろうか。
知らぬ間に、わたしはとんでもないロマンチックと遭遇していたのかもしれない。誕生日プレゼントに、と特等席を内緒で用意してもらうだなんて住む世界の違う人の話だとばかり思っていた。

そして、そこで目の前に土手が現れたのだ。ずいぶんと先まで歩けばコンクリートでこしらえられた階段があるのだけど、それはあまりにも遠回りらしかった。
「大丈夫ですよ、下りられます」
まるで自信が無いくせに、わたしがそう言うと、
「じゃあ落ちそうになったら、ぼくが落ちます(笑)」
そう言って、彼はすっと手を出してくれた。運動音痴なうえに浴衣に下駄だ。祈るようにそろりそろりと、鼻緒を見つめ、彼の手をぎゅっと握り、時間をかけてようやく下まで下り終えた。
そのときだ。ほっとしているわたしの隣で、彼が
「ああぁああぁああぁ」
と声にならないような声を漏らす。
「ど、どしたんですか!」
慌てて尋ねると、
「いま、『上手だ』って言えばよかったですね……」
と自分の膝を叩くのだ。
「全部用意してきたから、アドリブが出なかった」
片目を閉じてとても残念そうな顔をする。
そのとき、まだ花火は始まってもいないのに、なんだかわたしの胸の中で熱いものが弾け飛んだのがわかった。体はこんなに大きいのに、なんて愛らしい人なのだろう。思わず、勇気を出してもう一度ぎゅっと手を取りたくなる。けれど、そういったことがまるでできない自分を、わたしは本当に悔しく思った。
「……あの。あの、また、帰りに、お願いします……」
振り絞るようにそう言うと、彼は素早く何度も頷いて、
「そうします、書き込んでおきます、台本に(笑)」
と恥ずかしそうに笑った。わたしはなんと返せばいいのかわからず、またも
「へへへ」
と笑うしかなかった。けれど歩き出すとき、ほんのちょっとだけ勇気を出して、わたしは彼が歩く左側の手で持っていた巾着を、そうっと右の手に持ち替えた。

ほどなくして、何度か左手に彼の手がぶつかり、そのまま指先を掴むようにして手を握ってくれる感触が伝わる。
夏の。8月4日の出来事だった。


そんなことをぼんやりと思い出しながら、店内で流れる桑田さんの歌声を聞いている。
「四六時中も好きと言って 夢の中へ連れて行って」
と言うものだから、てっきり恋い焦がれる夏のラブソングだと思い込んでいたけれど、聞けば聞くほどに『真夏の果実』はもう後戻りのできない、苦しく切ない過去の愛を歌った曲じゃないか。

こんな夜は涙見せずに
また逢えると言って欲しい
忘れられない Heart&Soul
涙の果実よ

サザンオールスターズ『真夏の果実』



「また逢えると言って欲しい」だなんて、最後だけ音程が変わるそのメロディが無性に悲しくて、泣きたくなる。
いい曲って、水彩画みたいだ。伝えすぎない曖昧さのおかげで、聴くたびに何度も何度も塗り重ねるように思い出が重なって、その滲みがそれぞれに違った味わいになる。ひとつの曲に寄せる人の想いは、ひとつとして同じじゃない。それが嬉しくてとてもさみしい。
つられて、淡い思い出がただ押し寄せてきたけれど、ふいに波のようにひと夏で過ぎ去った過去だった。

「ごちそうさまでした」
マスクを付けながらようやくお店を出る。駅に続く方向に目をやると、夏日に照らされてたくさんの人たちが歩いているけれど、だれも彼もマスクに覆われ、なんだか同じ人のように見えた。今年も当然、花火大会は無いのだろう。ただ無事に終わることを願う夏だ。

「暑いねえ」
そう言いながら駅とは反対の自宅に向かい、先に歩き出す恋人の背中を眺める。そういえば、わたしは、この人を想って胸の中でなにかをはじけさせたことはあっただろうか。
「ねえ、『赤い実はじけた』って知ってる?」
「なにそれ?」
「あのね、小学生の女の子がさ――」
「うんうん」
パンッとなにかが大きくはじけるようなことはない。ただそうっと形を変えながら熟れて、じわりじわりと溶け出すような、胸のひだに染み込むような。たまに笑顔を見ると、きゅっと苦しい。なんだかそんな想いで過ごしている。
――はじけて散ったりせずに、このままがいいや。
今年の夏は、そんなことを考えている。

Photo/片渕ゆり(@yuriponzuu



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#13月の約束と、6月のアーモンド。」(レミオロメン『3月9日』)


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中前結花

ライター、エッセイスト。ものづくりに関わる、人や現場を取材するインタビュー記事と、これまでの人生や暮らしの「ちょっとしたこと」を振り返るエッセイを中心に執筆。兵庫県うまれ。https://twitter.com/@merum...

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