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「自分はどうなんだ」をむやみに振りかざさない。息子の言葉に気付かされたこと

不完全なもの同士だからこそ、支え合うことができる……そのことを教えてくれたのは、自分の息子だった。「自分が完璧にできていないことを人に注意することはできない」と思っていたエッセイスト・碧月はるさんが、「自分はどうなんだ」に振り回されずに大切なことを考えることができるようになったきっかけをお届けします。

「自分はどうなんだ」をむやみに振りかざさない。息子の言葉に気付かされたこと

■子どもに言えなかった「ごめんね」

「お母さん、言葉遣い気をつけたほうがいいよ」

長男にそう言われたのは、彼が小学5年生の頃のことだった。気心の知れた友人と電話で話し込んだあと、スマホを置いた私に彼は言った。

「嫌いな人がいるのはしょうがないと思うけど、嫌いな人の話しているときのお母さんって言葉遣い悪くなるから、聞いてて疲れる」

私は元来短気な性格の上、東北の浜育ち特有の方言も持ちあわせており、怒りのボルテージが上がると途端に口が悪くなる。子どもの前では気をつけようと心掛けているものの、話し相手との親密度合いやストレスの溜まり具合いによって、タガが外れてしまうことが度々あった。

長男の言い分は、何ひとつ間違っていない。指摘された通り、どう考えても私が悪い。素直に謝ればいいと頭ではわかっていた。しかし、つまらないプライドがむくむくと顔を出し、この日の私はつい、言わなくてもいいことを言ってしまった。

「言葉遣い悪いのは、そっちだって同じじゃん。人に注意する前にまずは自分が直したら?」

私の言葉を受け、長男は眉をぎゅっと寄せてこう言った。

「注意されたら素直に謝れっていつも言うくせに、自分はしないんだね」

正論に突き刺されると、どうして人は冷静さを失ってしまうのだろう。至極真っ当な言い分であると理解しているのに、心がそれに追いつかない。逃げるように夕飯を作り始めた私の背後で、大きなため息と共にバタンと勢いよくドアの閉まる音がした。「物に当たらないで」と言いかけて、やめた。そんな権利が自分にあるとは、到底思えなかった。

■母親の孤立がイコール子どもの孤立を意味する、住宅街での日常

当時、新興住宅地で子育てをしていた私は、いわゆる「ママ友」問題に日々頭を悩ませていた。毎日ひっきりなしに鳴るグループLINEの通知。そこで繰り広げられる会話のほとんどが、噂話に尾ひれがついたようなどうでもいい話だった。他所様の家庭事情をあれこれ詮索して想像を膨らませる話題に興味はない。挙句の果てに、既読スルーをすれば「何かあったの?」と言われ、未読スルーをすれば「具合いが悪いの?」と家にまで押しかけられる。

何かあったわけでもないし、具合いが悪いわけでもない。ただもう、放っておいてくれ。ひとりにしてくれ。私に構わないでくれ。

そう言えたなら、どれほど楽だったろう。しかし、そんなことを言ったが最後、完全に孤立するのは目に見えていた。私だけが孤立するのは別に構わない。だが、息子に火の粉が飛ぶ可能性を考えないわけにはいかなかった。親同士が仲違いしたり、良くない噂が耳に入るたび、「あの家の子どもとは遊ばせない」と平然と言ってのける大人もいる。そんな考えが横行していた住宅地で、母親の孤立はイコール、子どもの孤立を意味していた。

苦手な人であろうとも、バッサリと関係を断つわけにはいかない。面倒でややこしい人間関係のストレスを、同じ地域に住んでいない信頼のおける友人に吐き出したのがその夜だった。当然、息子には誰のことかわからないよう気をつけて話してはいたものの、口の悪さは隠しきれず、結果家の空気を重苦しいものにしてしまった。そもそも、息子たちが起きている間に話すべき内容ではなかったのだ。

「ご飯できたよ」

呼びかけに応じ、渋々部屋から出てきた長男は無言で席についた。お互いにむっつりしながらご飯を食べる。おかしな空気を察した次男までもがみるみる元気をなくしてしまい、自己嫌悪が重くのしかかる。まるでお通夜のような夕ご飯は、味も素っ気もなかった。

■私には「息子を注意する権利」があるのだろうか

過去にも、同じようなことがあった。誰かに強く注意されると、つい反発してしまう。「自分はどうなんだ」と思ってしまうところが、私にはある。このときはさらに、注意された長男にまつわる人間関係のストレスという要因が重なった。彼に口の悪さを指摘された瞬間、私は咄嗟に思ったのだ。

“誰のためにいろんなことを我慢していると思っているの”

なんとも手前勝手な言い分である。私がママ友との人間関係に悩んでいたとして、それは息子の責任ではない。彼は何も悪くない。むしろ、ちゃんとフォローの言葉を入れた上で、気持ちを伝えてくれていた。「嫌いな人がいるのはしょうがないと思うけど」と。息子は私に「誰も嫌うな」と言ったわけでも、「愚痴るな」と言ったわけでもない。ただ、聞き苦しい言葉遣いを改めるようアドバイスをしてくれただけなのだ。すべてを否定されたような気になって、勝手にふてくされたのは私の側で、そんな母親に息子が怒るのは当然のことだった。

息子自身も口が悪いのは事実だ。しかし、たとえ相手に直してほしいところがあったとしても、それを自分が注意されたタイミングで言うのはずるい。

ちゃんと、謝ろう。

静まり返ったリビングで天窓の星を眺め、じわりとにじんだ涙をビールと共に飲み干しながら、そう心に決めた。

「注意されて自分が悪いと思ったら、すぐに素直に謝るんだよ」

大人は子どもにあれやこれやと言うけれど、そのなかで自身ができていることが一体どれほどあるのだろう。私は情けないほど、できていないことだらけだ。

■「自分がちゃんとできていなくても注意していいよ。だって、言ってくれなきゃわかんないよ」

翌朝、起きてきた息子はいつも通りの表情で私に「おはよう」と告げた。彼は私と違い、怒りを引きずらない。そんなおおらかな心を愛おしく思いつつも、そこに甘えるのは違う気がした。

「ごめんね、昨日。お母さん、ちゃんと謝れなくて」

真っ直ぐに目を見てそう伝えると、息子は一瞬きょとんとしたのち、すぐに納得した表情で「うん」と答えた。

「お母さん、いっつもいろいろ注意するけど、できていないこといっぱいあるね。ごめんね」

長男は起き抜けの水を飲みながら、なんでもないことのように言った。

「全部ちゃんとなんて俺もできてないけど、良くないと思ったら俺はこれからも注意するよ。だからお母さんもそうしてよ。自分がちゃんとできていなくても注意していいよ。だって、言ってくれなきゃわかんないよ」

私の返事を待たず、長男は洗面所へするりと消えた。私はそんな彼の背中をぼうっと眺めながら、しばし台所で立ち尽くしていた。

“自分がちゃんとできていなくても注意していいよ”

これを言える人間が、大人を含め、一体どれほどいるだろう。何かを指摘されるたび、相手の落ち度を探す。少なくとも私はそうだ。「それを言える資格があるのか。それほどにお前は完璧な人間なのか」と、受け入れたくない気持ちを相手の荒探しに変換しては「自分だけが悪いんじゃない」と逃れようとしてしまう。そうやって保ってきた心が、私には数多くある。

誰かにアドバイスや注意をするとき、「果たして自分にはそれができているだろうか」と立ち止まって考えることは、決して悪いことではない。ただ、あくまでもそれ一辺倒になってしまうと、視野が狭まる要因にもなり得る。もちろん、完璧な人間なんていない。だからといって良くないものを見過ごすばかりでは物事の改善には結びつかず、いずれ大爆発を起こしてしまう恐れもある。家族や恋人のように、関係性が近しい相手への不満をすべて飲み込むのは、ほぼ不可能に近い。それよりは、伝え方に考慮した上で「私はこう思うよ」と発していく、また、自身が言われたときも柔軟に受けとめる姿勢が大切になってくるのではないだろうか。

「ありがとうね。お母さんもそうする」
「うん」

あっさりとした会話のやり取りのなかで、互いの心に通いあったものは決して小さくなかった。「ちゃんとできない者同士、言葉にしていこうよ」と、「言ってくれなきゃわかんないよ」と、長男は伝えてくれた。親として、間違える回数は少ないに越したことはない。でも、過度に恐れる必要もない。自分にも相手にも完璧を求めない。まずはそこから始めてみようと、朝食を作りながら思った。

「行ってきます」と玄関を開けた息子の背中で、紺色のランドセルがカタカタと揺れていた。小さな背中が私を追い抜き、独り立ちするその日まで、私はあと何度、彼の言葉にハッとするのだろう。

前日の償いとして、息子たちの好物であるカレーの材料を買いに車を走らせた。カーステレオから流れてくるCoccoが、“きのうを許せるように。明日を愛せるように”と美しい伸びやかな声で歌っていた。あれからおよそ2年。私も長男も、今でも度々間違える。でもそのたび、互いに臆さず伝えあっている。「ごめんね」と「ありがとう」を添えて、私たちはこれからも、不完全な者同士、共に生きていく。

碧月はるさん連載のバックナンバー



#1:「後悔するかもしれない」けど、そのとき正解だと思えた選択をしていく

碧月はる

エッセイスト/ライター。各種メディア、noteにてエッセイ、コラム、インタビュー記事、小説を執筆。書くことは呼吸をすること。

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