ピンクと俺がうまくやっていくために
不定期連載『ヒラギノ游ゴの考え中』では、ライターのヒラギノ游ゴが、社会で起こっている物事について学んだことをいかに生活の中で実践するのか、いろいろと試している様子を紹介します。今回のテーマは「ピンク」について。
不定期連載『ヒラギノ游ゴの考え中』は、なにかと思いを巡らすことはあっても、実際自分の暮らしにどう結びついてくるのかわからない、勉強してはいるけどどうアウトプットすればいいのかわからないという人と一緒に、より自分に納得して暮らしていく方法を考えるフィールドワークです。
今回のテーマは「ピンク」について。単なる色として扱いきれない、”社会的な色”であるピンクを”男性が身につける”ことを通して、知らず知らずのうちに刷り込まれたものに向き合っている様子をお届けします。
■桃色の研究
こういうネックレスを作ってみた。
自分でパーツを選んで作るスペイン系のアクセサリー屋さんにて。
ツイート本文にもあるように、女性向けとされている色使いをメンズファッションに落とし込む実験の一環で試してみたことだ。
パステル系のピンクや紫の組み合わせは、いわゆるゆめかわの文脈にあるものだけれど、このネックレスの場合、紫の方はパステル系というには濃くて、ぎらついたテクスチャ―。ピンクのチャームもレディースのアクセサリーとしては大ぶりで、シルバーの無骨な質感も相まって、正統派なゆめかわのイメージからは少し乖離したマスキュリンな印象。このギリギリのバランスが欲しかった。
この夏はほとんどチンピラじみた総柄の開襟シャツしか着ていないのだけれど、色味が合うときはそういうシャツと合わせてこのネックレスをつける。
こういうふうに、いかにピンクを身につけるかという実験を断続的に続けている。
「中性的」「ジェンダーレス」「フェミニン」と称されるようなメンズファッションがピンクを取り入れているケースは散見するけれど、自分が試してみたいのはもっと伝統的な「男らしさ」の枠組みの中にピンクを侵入させることだった。そのほうがより「男らしさ」に囚われた男たちに”効く”から。
元々数年前から試していることとして、なるべくオラついたファッションでいるようにする、というのがある。パッと見で”男らしい”男性がジェンダー論やフェミニズムの話をしていたほうがやはり男たちに”効く”から。応用編として、そこにピンクを取り入れはじめたのが今試していること。
全体として見るとごくごく”男らしい”ストリートファッションでありつつ、いかにピンクを使うか。また、上記のようなアクセサリー、トップスなど直接的に身につけるものはもちろん、財布などの小物類、香水、ワンポイントでピンク色が使われている服や、仕事場のデスクに置く文房具、雑貨などにもピンクを積極的に取り入れている。
そのときに起こる意味の撹乱、既成概念のぐらつきを通して、もっとピンクとうまく付き合えるようになりたい。
■ピンクとの付き合い方がわからない
ピンクとの付き合い方がわからない。
長らく”女の色”とされてきた色。たくさんの人の愛も憎も一身に受けてきた、圧倒的な文脈を内包した色。この色で自分を表現するとして、どんな顔をしてどう立っていればいいかわからない。
だからわかろうとする一環でいろいろと試している。
女性の顧客を想定した製品、イベントや映画のポスター、あらゆるヴィジュアルイメージが片っ端からピンク色にされる「ダサピンク現象」が指摘され始めた頃からスタートさせたことだ。
言うまでもなくすべての女性が好きな色なんてものはなく、男性でもピンクを好む人はいる。にもかかわらず、あまりにも長い間この色をジェンダーと結びつける固定観念がこの星を覆ってきた。
小学校に上がる前の男児にだって、自分の持ち物としてこの色を選ぶのを頑なに拒否する子がいるだろう。自分の”男らしさ”を証明するためにこんなに強大な敵はいない。緑や黄色と同じただの色のはずのものが踏み絵として機能する。それくらい、この色が持つ文脈の力はとてつもない。
おもちゃ売り場をぐるりと見渡したとき、どこが女児向け玩具コーナーかは一目瞭然だ。
小学生の頃、クラスの女子が着ていたパステルピンクと水色のブランド物の子供服に憧れていた。あの色は自分には許されていなかった。
それに、ピンクを着たいのに避けている女子もいた。ピンクを誰より謳歌する権利を持っている(ことになっている)スクールカースト上位層の女子からの視線を気にしてのことだった。彼女が着ていたのは、ピンク主体のエンジェルブルーではなく、オレンジとブラウンのツートンカラーが印象的なデイジーラヴァーズだった。その色は彼女のあの頃の人生の選択そのもののようで、思い出すたび胸がぎゅっとなる。『悲しい色やねん』という曲を知ったときに思い浮かべたのはこの色だった。
そうかと思えば、保護者の「女の子らしくあれ」という要請に応じて着たくもないピンクを着ている同級生もいた。
大人になっても、あの色に付加された女性性のニュアンスから距離を取るため、自分の望む見られ方との乖離のため、ピンクを避ける人にはたくさん出会ってきた。避けるなら避けるでそこに意味を見出すこともできてしまうところが、アンフェアでたまらなくいやだ。ただの色なのに。
そういった社会の刷り込みが呪いとして機能し続けている現状に対して、「何もしない」という選択では自分で自分に納得できなかった。学ぶこと自体にどでかい価値があるのは承知しているけど、学んできたことを何かしらの実践に移してみないと、本当の意味で身につかずに忘れていってしまいそうで不安になる。
■ピンクのインターセクショナリティ
試してみてわかったことがいくつかある。
まず1つは、ピンクと一口に言ってもいろんなピンクがある、ピンクにもインターセクショナリティがあるということ。
この実験についていろいろとインスピレーションを与えてくれた友達の言葉を借りるなら「ザコのピンク」と「つよつよのピンク」があるし、また別の友達の分類では「プリキュアっぽいピンク」と「キャバっぽいピンク」、あるいは「きゃりーっぽいピンク」と「大森靖子っぽいピンク」や「かわいいピンク」と「ケバいピンク」に大別され、そこからさらに細分化される。それぞれなんとなく言いたいことはわかる気がする。
そして改めて、想像以上に「男のピンク」は世の中的に”変”だということがわかった。ほんの少しのピンクでもまあ見逃さない。ほとんどの場合何かしらの指摘はされる。
そして一番厄介だったのが、「かわいいと思われたいんだな」と思われてるんじゃないかという疑念に苛まれることだ。これは本当にしんどい。実際にそういう言及をされたことがままあって、意図と違いすぎて、めんどくさすぎてもうやめたろかなと何度も思った。
かわいいとか女性的とか、そういうピンクの呪いを解くための実験なのに、その呪いが強すぎて通用しない。
そして、何度目かの「やめたろかな」の気持ちの波の中で気づいたことだけれど、そもそも「男がかわいくあろうとして何が悪いんじゃい」というのもある。自分の志向としてはそうではないけれど、そういう男性がいたとして誰かに何かを嘲笑される謂われは100%ない。そして嘲笑の言葉を投げかける人は、同じ口で女性には「かわいくあれ」と規定する。あれ? ダサくね?
そのことがあって、闘志で目がギンギンになりながらこの実験を続けている。自分で自分に納得していたい。
■垣根を壊すとき、その瓦礫を誰にもぶつけないために
現状、ここまでに書いたような目的意識を持って、今でもピンクを身につけることを続けている。
ただ、折に触れて立ち止まって、続けるべきか否かの自問自答もまた繰り返してきた。そのとき気にかけているのは、この”男がピンクを身につける”という行為において何か「盗用」や「ただ乗り」が起こっていないか? という点だ。
自分としては、自分自身や見る人にとっての既成概念の転覆を目論んでやっていることではあるのだけれど、この行為がピンクとともに歩んできた人たちにとって尊厳を傷つけるものではないか? 自分で気づいていない特権性を振りかざして、文脈を利用するおこないではないか? 今も連載タイトルの通り考え中だ。
Photo/宮本七生
Photo Model/ゆうた
ライター/編集者