「推しを嫌いになりたくない」と思った日のこと
友達思いで差別主義者。仕事に真剣で人の話を聞かない。家族のことを大切にしていて人の容姿を貶める。私のいるところで、あるいはいないところで、その人の顔はころころ変わる。大好きな人、尊敬している人がふとした瞬間に垣間見せた“嫌悪せざるを得ない表情”に、どう向き合っていけばいいんだろう。
なにがあっても好きだと確信していた人への愛が、些細な言葉で揺らいでしまいそうになることがある。iPhoneから聞こえてきた大好きな相手の発言に耳を覆いたくなって、ラジオアプリを閉じたのが数日前の話だ。
その人のことを、古風なジェンダー観の持ち主だとは思っていた。1杯目にカクテルを頼む女の子は空気を読んでほしい、乾杯が遅れるからという発言を過去のインタビューで読んだときは、ファン同士で「なに言ってんだろうね」と笑い合いもした。
それは5年前の話だったからまだ笑い飛ばせたのだけれど、ラジオの放送日はまぎれもなく2019年だったから、ウッ、となった。女性の容姿を理不尽にジャッジするような言葉が推しの口からかろやかに飛び出たとき、真っ先に思ったのは「この人を嫌いになりたくない」だった。だからラジオアプリを閉じた。
■どうか変わってほしい、という私のエゴ
ある若手俳優のファンを続けている友人が、その俳優のTwitter上での発言に憤っていたことがある。彼のことをよく知らない私から見てもその発言は明らかに倫理的にNGで、リプライ欄にはファンからの冗談めかした返信に交じって、「発言を撤回してほしいです」という切実なツイートも寄せられていた。
友人はその発言を見て、推しである若手俳優をブロックした。「売れてる人だったら一瞬で炎上したと思うんだけど、そこまで知名度がないから燃えなかったんだよね」と笑う友人は悲しそうだった。
それが芸能人の推しのような遠い存在であっても、もっと身近なパートナーや友人であっても、相手のなにげないひと言に前時代的なジェンダー観や差別的な価値観を垣間見てたじろいでしまうことがある。たじろぐ、くらいならまだいいのだけれど、なかにはその発言に自分自身の心が深く傷つけられてしまうケースもあって、どうしようもなくつらくなる。
……という話をすると「ファンをやめればいい」あるいは「縁を切ればいい」と言ってくれる人がいて、まったくそのとおりだと思う。実際に私は、女性蔑視的な価値観を何度指摘しても改めようとしてくれないパートナーと一緒にいるのがしんどくなって、それを理由に付き合うのをやめたことがある。
けれど、相手が自分にとって大切かつ自分自身から切り離したくない存在(たとえば家族や親友、推し)であるとき、相手を嫌うことは本当に難しい。かといって、自分の倫理観やジェンダー観に則って「それはどうかと思う」と真正面から意見をぶつけるのは、相手が芸能人のような対話の成立しにくい存在であるときは特に、独りよがりな行為にもなりえてしまう。
どうか変わってほしい、と他者に対して思うのは愛ゆえのエゴだ。エゴだと自覚しながらもそれを相手に伝えられる人のことは、嫌われる勇気のある強くて偉い人だと思う。けれど、私には真正面から相手にそれを伝えられるだけの自信がない。
■尊敬していた人に裏切られたと感じたら?
話は飛ぶのだけれど、1年ほど前に終電の埼京線に乗っていて、知らないサラリーマンに話しかけられたことがある。その人は私と同じくらいかすこし歳下に見えた。彼が画面のばきばきに割れた私のiPhoneを指さして「やばいっすね」と言い、それをきっかけにして短い会話が始まった。
どのへん住んでるんですか、飲みの帰りですか、のような当たり障りのない応酬がしばらく続いたあと、彼が突然、変なこと聞いていいですか? とこちらを見た。「あの、自分がすごく尊敬してた人が実は尊敬するに値しない人だって気づいたら、お姉さんならどうしますか?」
言われた瞬間、ふざけているわけではないのが声のトーンでわかった。ただならない空気に気圧されながら話を聞き続けると、尊敬していた会社の先輩に対する印象がここ数日で正反対のものに変わってしまった、というようなことを彼は言った。具体的になにがあったのかについては語ってくれなかった。
私は自分の乏しい経験のなかから彼の気持ちにいちばん近そうなケースをたぐり寄せて、私も崇拝に近い尊敬をしていた人にむかし裏切られたことがある、と話した。けれどいまでもその人のことが好きだし、むしろ相手のことを偶像みたいに特別視しなくなったからよかったかも、と伝えると、彼は「あーわかる」と言って笑った。
彼には申し訳ないのだけれど、そのとき私が感じていた気持ちは安心感に近かった、と思う。性別や職種、周囲の人間関係といったあらゆる境遇が(おそらく)かなり違う相手でも、似たような不安を抱くことがあるということを初めて実感して、遠い国で言葉の通じる人を見つけたときのような感覚になった。
■自分と違う価値観の持ち主と話したい
またもや話は少し変わるが、私は20代前半のときに、偏見を隠さない人とは縁を切る、と決めていた。その結果なにが起こったかというと、半径数メートル以内の人間関係はものすごく快適になり、ストレスの溜まる人付き合いをする機会もほとんどなくなった。
けれどあるときから、知らない人を前にしたとき、その人にまつわるエピソードとバックグラウンドをある程度聞いた時点で“仕分け”のようなことをし始めている自分に気づいた。酒の飲み方の荒い人には「テニサー出身だから」とラベルを貼り、笑えない下ネタを言う人には「男子校だから」とまた別のラベルを貼って疎遠になるようにした。
そして、そういうことを繰り返してもなお縁の続いた数少ない人たちとだけ一緒にいる自分に気づいたとき、本当にゾッとした。自分はどれだけ薄情で身勝手なことをしてきたのだろうか、と自問自答していた時期に出会ったのが終電のあのサラリーマンだった。だから、バックグラウンドなどなにひとつ知らないあのサラリーマンと言葉が通じ合ったように思えたとき、本当にうれしかったのだ。
電車でのその出会い以来、街で見知らぬ人に話しかけられてもあまり無視をしなくなった。もちろん、相手が悪質なナンパやキャッチだった場合は気づいた時点で言葉を返さないようにするのだけれど、そうではなさそうな場合は(無理のない範囲で)できるだけ会話をしてみる。
酒に酔っているわけでもない人間が知らない人に話しかけるなんて信じられない、と言われることもあるけれど、意外と人は人に突然話しかける、というのが個人的な体感だ。夕立をしのぐために入ったコンビニのイートインコーナーで知らない女性から彼氏の話を聞いたこともあるし、横断歩道で前から歩いてきた人に人生相談のようなことをされたこともある。旅行先で、自分がその土地の人間ではないということが相手にわかりやすいような状況だと、話しかけられるハードルはさらに下がる。
どうしてわざわざ知らない人と会話なんかするのかと聞かれたら、誰かの話し相手になるのがそんなに嫌いじゃないというもともとの性格もあるのだけれど、それ以上に自分と違う価値観の持ち主とできるだけ話をしたい、という欲が今は大きい。偶発的なシチュエーションで出会った人とは、(その場である程度話が弾み、なおかつ変な空気にならなければ)そのあともたまにお茶をしたりして、関係を続けるようにしている。
■若い女性の服装を見て「いけそうじゃね?」
知らない人と話していると、相手の言葉に頻繁に傷つけられる。子どもがいないうちは人として一人前じゃない、と言われたことや、リアルの人間関係が充実してないからオタクなんかになるんだよ、と言われたことを思い出すと、いまでも悔しい気持ちになる。
けれど、そういうことを平気で言う人が同時にものすごくやさしかったり、家族思いだったりすることがあるのを、たくさんの人と会い続けた2019年の自分は知っている。そしてもしかすると、自分が傷つけられたと感じているのと同じように、私も不用意な言葉で価値観の違う他者のことを傷つけてきたかもしれない、とも思う。
人の価値観に干渉したくない、という思いは根強くて、相手の発言にちょっと偏っているんじゃないかと感じる部分があっても言えないケースが多い。それでもときどき勇気を出して「それは違うんじゃない」と言うと、半分くらいの人は「そうかなあ」と考え直そうとしてくれる。
むかし飲み屋で出会った長距離トラックのドライバーの男子ふたりが、店に入ってきた若い女性の服装を見て「いけそうじゃね?」と言ったことがある。すこし迷ったけれど、思わず「好きで着てる服じゃん、人をなんだと思ってるの」と伝えると、そのうちのひとりが「ごめん、でもさあ」と言った。それからすこしだけ、ふたりとフェミニズムやルッキズムにまつわる話をした。
私の言ったことが絶対に正しかったとは思わないし、彼らが自分たちの発言のまずさを省みてくれたかもわからない。けれどたぶん、よく知らない相手と議論(のようなこと)をしたという記憶は残るはずだから、彼らが必要な場面でそれを思い出してくれたらうれしい、と傲慢ながら思う。
■推しへの祈り
変わってほしいと他者に伝える勇気がない、とこの文章のはじめに書いた。飲み屋での一件は自分のなかでもかなりのレアケースで、私にはやっぱり、いまでも基本的に人の思想を否定する勇気がない。けれど、ここ最近で唯一自分の意識が変化した点があるとしたら、「“人の影響を受けたい”と思っている人は意外と多い」、と信じられるようになったことだ。
飲み屋の男子ふたりは見ず知らずの私の話を熱心に聞こうとしてくれたし、終電のサラリーマンもコンビニの女性も、赤の他人の言葉からなんらかの新しさを得ようとしているように見えた。それがたとえ“知らない人と喋っている”という物珍しさからきたものであっても別にいい、きっかけはなんであれ出会いは出会いだ、と思う。
好きな人たちには人の尊厳を踏みにじるようなジェンダー観や倫理観を持っていてほしくない、と思う私の気持ちはやっぱり、どこまで行ってもエゴだ。それでも私は好きな人を好きでい続けることに後ろめたい気持ちを持ちたくないし、できるなら自分の愛に自信を持ちたい、と思ってしまう。
だから、落ち込みそうになったときは、これまで出会ってきた人たちのことを思い出す。バックグラウンドがものすごく似通っているのに最後まで言葉が通じないと感じた人もいるし、性別も境遇もなにもかも違うのにこんなに気が合うなんて、と思った人もいる。そして後者のなかには、最初は絶対に無理だと思ったのに、何度も言葉を交わすうちに波長が合っていった人たちが(少ないけれど)たしかに存在する。
この人はずっとこのままだ、と人を簡単に見切るようなことはもうしたくない。だから私は推しのことを信じているし、もしもできるなら変わっていってほしい、とも思う。人を好きでいるというのは一方的な祈りのようなものだから、届かなくても仕方ないし、いつか届いたらラッキー、くらいに思いたい。
1992年生まれ、ライター。室内が好き。共著に『でも、ふりかえれば甘ったるく』(PAPER PAPER)。