「一緒にトイレ行こう」という女子が苦手だった
ひとりで行動するのを好むタイプ、グループ行動を好むタイプ……人によってさまざまだ。しかし、別々のタイプの人間同士がうまくやっていくのは厳しいこともある。仲良くするには寛容性とほんの少しの自己主張が大切なのではないだろうか。
学生のころ、女子の「一緒にトイレ行こう」というのがイヤでイヤで仕方がなかった。「ひとりでトイレも行けないのか」とは思わなかったけど、「好きなタイミングで行かせてくれ」とは思っていた。
振り返ってみると、学生時代は人と行動することが多かった。
学校とは、勉強するだけではなく、社会や団体行動を学ぶ場所なのだと言われた覚えがある。今振り返ると、あれは空気を読む練習だったんだろうか。
おかげさまで、周りの顔色を気にして、少々つまらないことを口走っては、「スベってしまった、もう黙っておこう」と思ってしまう、飲み会において非常につまらない女になった。
いや、面白いことを言えるのならばそれが一番なので、これは責任転嫁かもしれないが。
■大人は自由なのか
私自身はフリーランスということもあり、誰かと行動しなければならないという縛りはさほどない。仲が良い仕事仲間はいるが、つかず離れず。
なにか集まりがあるときは、タイミングが合えば一緒に行きましょうか、ちょっと食事にでも行きましょうか、という程度のテンションだ。「それはフリーランスの特権のひとつでは?」と思われるかもしれないが、このあたりは人それぞれなので、なんとも言い難い。
しかし、人によってはグループに属さなければいけない場面がある。
もともと「ひとりで行動するのが好き、楽だ」という人にとってはなかなか苦痛だ。少なくとも私にとっては。
ハッとするのは、グループに属したあるとき、ついつい自己中心的な行動をとってしまっていたこと。
みんながやるんだから私も、ではなく、ちょっと気が向かないから私は遠慮しておくわ、というのはあまりいい顔をされない。
私がやるならあなたも一緒に、あなたがやるなら私も一緒に。
あなただけが楽しいのはなんだか気に入らないわ。
あなたが苦しんでいるときは私も一緒に苦しんであげるから。
■同調し続けないことの大切さ
体感ではあるが、「グループ行動を好む人」と「ひとり行動を好む人」ではペースが違うのかな、と思う。時間の流れが違う、と言ったほうがいいのかもしれない。
ひとりだと、自分の思い通りにモノゴトを運ぶことができる。けれど、グループ行動をするときにはそうはいかない。周りの様子を伺い、他者と協力しながらモノゴトを進める。そのため「ひとり行動を好む人」は、どうしても戸惑ってしまうところがある。
しかし、子どものころに学んだ空気を読む、という生きる術は生かさなければならない気がして、自分のペースを崩し、周りに合わせる。結果、「誰かと一緒にいるのは疲れるなあ」と思ってしまうし、周りから「なんだあいつはつまらなそうだ」と思われるケースもある。
でも、ずっと周りに合わせる必要はない。たまには自分のペースを押し通すことがあってもいいように思う。
小さいころに欲しいものがあると、「みんな持ってるから、買ってよ」などとねだったことはないだろうか。なんとなく、みんなが持っている、やっているなら許されるという免罪符。
「みんながやっていても、自分はやりたくないからやらない」と、たまには主張したって悪くはない。普段、グループで行動する人たちも、ひとり行動を好む人の「個性」を尊重したってそんなに困ることはないのでは? と思うのだ。
同調されると嬉しい。一緒にいてもらえると嬉しい。
しかし、同調しすぎると、自分がなくなる。自己主張をするのは勇気がいることだけれど、「YES」「NO」をはっきりと口にするのは悪いことではないはずだ。