*塚…一般に墓のこと。
男性ふたりの間で板挟みに! 「求塚」に学ぶ、選ばぬ先の地獄【能楽処方箋】
実は女性主人公が多く登場する能楽には、悩める現代女性にも通じる生きかたのヒントがたくさん詰まっています。今回取り上げるのは、能楽「求塚」に学ぶ、選ばぬ先の地獄。能楽評論家の金子直樹先生に伺いました。
男性社会のイメージが強い能楽には、実はさまざまな想いを抱えた女性が多く登場しています。
「能楽処方箋」では、能楽評論家の金子直樹先生が現代女性のお悩みに能楽のエピソードでお答え。
能楽に描かれた女性像を追いながら、心の在り方、そして人生について考えてみましょう。
■今回のお悩み:自分にベストな相手なのか選択に迷ってしまいます
男性にアプローチを受けても、この人がベストな相手なのかと選択に迷いが出てしまい、一歩を踏み出すことができません。(30代前半)
「自分の時間を、いま、この人といることに注いでもいいのだろうか」
「この選択で本当に後悔しないだろうか」
いわゆる「適齢期」と呼ばれる女性たちにとって、将来のことを考えれば考えるほど、こうした悩みも大きくなってしまうのかもしれません。
とはいっても、一人ひとり幸福のカタチは異なるもの。私たちはいくつかの選択肢が目の前に立ち現れたとき、一体どのように臨めばよいのでしょうか。
能楽評論家の金子先生は、「求塚(もとめづか)」という曲を取り上げて、身につまされるような教訓を教えてくれました。
■男たちの愛ゆえに地獄に落ちた乙女「求塚」
今回取り上げられたのは「求塚(もとめづか)」という曲。
この曲は『万葉集』や『大和物語』にも描かれている神戸市東部に伝わる伝承をもとに描かれたものです。それはふたりの男に求婚された菟名日処女(うないおとめ)という娘が、どちらかを選ぶことができず、最終的に自ら命を絶ってしまい、さらに男たちも娘の後を追ったという話。
しかし、死んだら終わりではないところが能楽の凄まじさ。能の「求塚」では、娘は死してなお地獄の責めを受け続ける……という何とも救いのない話です。
「求塚」あらすじ
春のある日。旅の僧侶の一行が生田川にさしかかると、菜を摘む女たちがいました。僧が女たちに「求塚」という古い塚の場所を聞くと、皆知らないと答え去っていきます。しかしそのうちのひとりは残り、僧を「求塚」へと案内し、その由緒を語り始めます。
それは昔この土地にいた菟名日処女という美しい娘と彼女に恋をするふたりの男の悲恋の話でした。
ふたりの男に求婚され戸惑った娘は生田川に身を投げ、男たちも後を追った……そうして建てられたのがこの塚(*)「求塚」であると。
実はこの菜摘女こそが、菟名日処女の亡霊でした。
彼女は自らの正体を明かし、「この身を助けてください」と伝えると消えてしまいます。
僧が塚を弔っていると、やがて憔悴しきった菟名日処女の亡霊が姿を現します。亡霊は地獄の責めに苦しむ様子を見せると、また「求塚」へと戻っていくのでした。
■菟名日処女と失われた3つの命
なぜ、菟名日処女は死後も苦しみ続けなければならなかったのでしょうか。
一連の事件の中で、菟名日処女のほかに3つの命が落とされたこと。そこに疑問を解き明かすヒントがあります。
3つの命のうちのふたつはもうおわかりですね。自殺した菟名日処女の後を追ったふたりの男の命です。ではあとひとつは何かというと、1羽のおしどりでした。
男たちに求婚されたとき、菟名日処女は選ぶことができず、男たちにこんな提案をします。
「あの生田川にいるおしどりを先に射た方と契りましょう」
しかし、矢は同時に1羽のおしどりに命中してしまいます。
おしどりといえば「おしどり夫婦」という言葉にあるように、雌雄一緒にいることが多い鳥。菟名日処女は、罪のない夫婦の鳥の仲を引き裂いてしまったと自分の業の深さを嘆き、川に身を投げて死にます。
さらに彼女が死んだことで、「菟名日処女がいない世に生きながらえても仕方がない」と男たちが刺し違えて後を追ってしまうのです。
皆、菟名日処女のせいで死んだのだと、死してなお地獄へ落とされ、責められ続けます。
地獄に落ちてもふたりの男は彼女の手を引っ張り合い、おしどりは鉄鳥となって彼女の脳をついばみます。それだけでなく、さまざまな地獄の責めが彼女の身を焼き尽くすのです。
■罪は存在そのものか、それとも選択の放棄ゆえか
物語を追うと、菟名日処女はふたりの男の恋情に板挟みになって死んだ気の毒な娘……そんな印象を受けます。死んで地獄に落ちるだけでなく、男たちや鳥まで追ってくるとは、あまりに悲惨な状況。
一体彼女が何をしたというのでしょうか。
金子先生「彼女に罪があるとすれば、それは選択を放棄したことではないかと思っています。男のうちどちらかひとりを選べない、ということは片方を捨てることができないということ。最終的に自分で決断するのではなく、『おしどりを射た方と結婚します』というのは、運任せというか、自ら考えることを放棄してしまっていますよね」
結果的に一羽のおしどりが彼女の提案ゆえに命を落としてしまい、男たちの決着もつかない。
彼女は罪の意識に苛まれて自殺してしまいます。
さらに想定外だったことは、男たちが自分の後を追ったことでしょう。「自分で選択しない」という“選択”が、悪循環を生み出した。それだけでも恐ろしい話です。
■自ら選択するということ
「選ばない」ことで、続く地獄
金子先生「この曲のさらに恐ろしいところは、菟名日処女が最後、『求塚』へと戻っていくことです。彼女は死んでも、まだ『選べない』ままなんですね」
塚に戻る以外の選択肢が彼女にはあったということでしょうか。
金子先生「この能は、僧と菟名日処女の亡霊が出会うことに端を発します。最終的に彼女は地獄に落ちて救われないままですが、もしかしたら僧に成仏させてもらうこともできたかもしれない」
菟名日処女が描かれた時代は、女性が自分の望む通りに行動する自由はあまりなかったのでしょう。自ら思考し選択するという力が培われないまま育てば、自分の置かれた状況に疑問を抱くことなく感覚が麻痺してしまうことも十分に考えられます。
また、絶えず地獄の業火に焼かれ続けて憔悴し、「救われたい」と願いながらも、目の前の希望を見出す力や判断する力まで奪われていたのかもしれません。
後悔にとらわれず人生を歩むために
幸いにも私たちは「求塚」の時代に比べたら、選択の自由が許される時代に生きています。
金子先生「お話したように、『求塚』はひとつの選択放棄からずるずると身を滅ぼしていく話と読み取ることもできます。時代を考えれば仕方がないことだ、と済ませることもできますが、現代の価値観を投影することで、また違った教訓を得ることもできるのではないでしょうか。
何かを選ぶということは、時にその他の何かを捨てることでもあります。
まったく後悔のない人生を歩むというのは難しいことですが、自ら決断を下すことで、自分の人生のかじ取りをしながら進むことができるはずです」
「何かを選ぶことは、何かを捨てること」――金子先生の言葉が身に沁みます。
迷いが生じたときには、菟名日処女の教訓を思い出して、本当に自分で考えて下した決断か、誰かの意見や世間の目に惑わされてはいないか、振り返ってみるとよいかもしれません。