存在の耐えられない軽さ /集英社/ミラン・クンデラ
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連載『ふねに揺られて』では、人生に新しい価値観をほんの少しだけ加えて、生活を豊かにしてくれるようなモノコトを取り上げていきます。#1で紹介するのは、自分の人生の在り方を考えさせてくれる3編の小説。あなたにとっての幸せを見つけるヒントになるかもしれません。
仕事や家庭、恋愛がうまくいかずに途方に暮れてしまうとき、自分の軸がぶれていると感じるとき。必ず読み返したくなる本が数冊あります。
それらの本に共通するのは、内容そのものが参考になるというよりも、その本を読むという行為を通じて自分の内面を掘り下げられる点 。物語を楽しんでいるうちに、「わたしにとっての幸せって何だっけ」「わたしは結局、どんな人生にしたいんだろう」などのモヤモヤが晴れてゆき、読了する頃にはスッキリした頭と自信を取り戻せる本です。
今回はそんな本たちのなかから、特に気に入っている3冊をご紹介します。
1冊目は、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』。大学生時代に授業の課題図書として出会いました。冷戦下のチェコスロバキアを舞台にした恋愛小説です。
物語のテーマは、タイトルにもある通り「存在の軽さ/重さ」。もし複数の人に「あなたにとって人生は重い・意味のあるものですか? それとも軽い・無意味なものですか?」と聞いたら、きっと意見が割れるはず。まさにそれがこの本のテーマで、「人生は重い派」の仔犬のように純真な田舎娘テレザと、「人生は軽い派」の浮気性な医者トマーシュのすれ違いが描かれています。
ふたりは出会ってすぐに一緒になりますが、その直後からトマーシュは浮気を繰り返すように。とはいえトマーシュは、心の底からテレザを愛してもいます。ただ、人生に重みや意味合いを感じられず、それ故に短絡的な快楽を追い求めるのを止められないだけ。いわゆる本気の浮気ではありません。
一方テレザは、もちろんそんなトマーシュを理解できません。「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとっては軽い。私はその軽さが耐えられない」と訴え、傷つき、疲れ切ってしまいます。そしてそれを見たトマーシュは罪悪感や自己嫌悪に苦しみつつも、やっぱり浮気はやめられない……という生活を繰り返す。
人生は1度きりで、かけがえのないものなのか。それともたかが1度きりの、責任の伴わない気楽なものなのか。愛し合っているのに傷つけあうふたりの関係を通して、自分の価値観を確かめられる1冊です。
2冊目はギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』。筆者が祖父の本棚から拝借してきたのが出会いです。ライクロフトなる人のエッセイと見せかけた、日記風の創作物 です。
主人公ライクロフトは中年男性。文筆家としての夢を追いつつも大成することはなく、長い貧困生活を送ったのち、ひょんなことから莫大な遺産を相続して田舎で隠居生活をしています。いきなり田舎でひとりきりの隠居生活なんてしたら、孤独と退屈で気が狂うか、もしくは穏やかすぎる生活に平和ボケしたりしそうなものですが、ライクロフトの場合は違います。
毎朝起きるたびに「田舎で隠居&お金に困っていない」という思いがけず与えられた幸福にしみじみ感謝し、家の周りを散歩しては自然の美しさや精巧さにワクワクするのです(たんぽぽにハマり、なるべく多くのたんぽぽの種類を覚えるのに多忙を極めたりするなど)。
雑誌や新聞を読み世間への関心は失わないながらも、同時に貧困時代に培った皮肉な批判精神やユーモアも健在(新聞にはばかげた/悲惨なことが書いてあって不愉快にさせられるので、朝の散歩が台無しにされないよう必ず散歩の後に読む。とはいえ、読むは読む)――といった暮らしぶり。とにかく、とーっても充実して楽しそうなんです!
何がその楽しさの源泉かといえば、それは間違いなくライクロフトの「素直さ」「教養」「知的好奇心」といった、心の豊かさ・思慮深さのようなもの。もし自分がライクロフトのように大金を手に入れたら、同じように楽しい生活が送れるかしら? と考えてみたりするのですが、今のわたしには到底無理。怠惰に寝て暮らすか、退屈を紛らわすための浪費に明け暮れる自分が目に浮かびます。未熟な筆者とライクロフトでは、日々の生活に見いだせる幸せの量が明らかに違います。
たとえお金や環境に恵まれても、自分の精神が貧しければ、きっと豊かで穏やかな生活は送れない。そのことを思い知らされる一冊です。
最後に挙げるのが、雪舟えまの『幸せになりやがれ』。新聞の選書欄に掲載された歌集をきっかけに雪舟さんにハマり、以来、出版された本はすべて読んでいます。本書もその中の1冊。これまで紹介した2冊よりもかなり軽く読める恋愛小説です。
中心となる人物は緑と盾(“みどり”と“たて”。ふたり合わせて“みどたて”)。ふたりとも男性です。そう、ふたりとも男性のいわゆるBL(ボーイズラブ)小説。
「同性を性的に愛してしまった」的な葛藤がセンセーショナルに描かれることは一切なく、みどたての周囲の人も愛し合うふたりを当然のごとく受け入れます。かといって、同性同士の恋愛が“普通” な世界観というわけでもなく……ただただ、ふたりの愛があまりにも圧倒的なので性別など些細なことは問題にならないといった感じ。
この「ふたりの愛が圧倒的過ぎて、些細な出来事は無視される」シーンは作中に多く登場します。物語は、クールで浮世離れした不思議ちゃんの盾が、真面目で嫉妬深くも盾を熱愛する緑の元から失踪するところからスタート。紆余曲折を経て緑は盾を見つけ出すのですが、やっと見つけた盾はなんと全身がむくみ、巨大に膨らんだ姿で空き家の中から発見されます。
どう考えても異常事態だし、どうしてそうなったのかの説明も皆無なのですが、緑はただ「やっと見つけた」と再会を喜び、かいがいしく盾をお世話する生活に入る。読者としては「いやいや、救急車呼ばんかい!」とツッコミたくなる……かと思いきや、そんなこともなく。緑の愛なら大丈夫、と自然に納得できるから不思議です。
大人になるとどんどん擦れてしまって、愛や恋を軽視しがちですが、緑のピュアで熱量の高い愛は大人の頭にもガツンと刺さります。「愛する人やものが、この世に存在すると思うだけですごくうれしい」気持ちを教えてくれるとともに、「もっと人生に、愛を組み込んでもいいんじゃない? 」と思わせてくれる小説です。
大学時代の恩師の、「読書とは本との対話。同じ本が相手だとしても、読む(=対話する)ときの自分の状況によって、そこから得るものは変わる。気に入った1冊の本と繰り返し対話し、そのたびに変わる自分の感想を俯瞰することで、自分を客観視できる」という言葉が今でも心に残っています。この記事が、誰かの“話し相手”さがしのお役に立てばうれしいなと思います。
※この記事は2020年3月10日に公開されたものです。