東大OGが『彼女は頭が悪いから』を読んで思うこと。私たちも「クソ東大生」と同じ穴の狢かもしれない
『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ、文藝春秋)。衝撃的なタイトルにドキッとさせられます。実在に起きた事件に基づいて書かれたこの小説を読んで、私たちが学べることとは何でしょうか。「ひどい事件だ」「エリートは嫌なやつだ」で終わらせてしまってはもったいない、と思うのです。
2016年、東大生5人が女子大学生に強制わいせつを働いたとして逮捕された。
酒を飲ませて酔わせた女性をマンションへ連れ込み、女性を全裸にして、ドライヤーの風を陰部に当てたほか、体を触ったり、キスしたり、さらにはカップラーメンの麺を体に落とすなど、幼稚で卑劣な犯行を行い、女性の心身を深く傷つけた事件だ。
『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ、文藝春秋)は、その実在の事件を題材に描かれている。
東大OBの私は、母校の恥がさぞたくさん晒されているんだろうな……と複雑な気持ちで読み始めた。
■「いやな勘違いエリート」への非難が感想の大半
物語は、加害者である東大生、被害者である女子大学生の家庭環境や高校生活を細かく描写することから始まり、実際の事件へと進む。
事件の描写はおぞましく、被害者が受けたショックや心の傷は生半可なものじゃなかっただろう、と読んでいるこちらも胸をえぐられるようだった。読後は胃がずっしりと重くなる。
いやな読後感を持てあましながら、本作についてのブックレビューをネット上で読むと、「これだからエリートはいやだ」「勉強ができる人でもいい人はいるのだろうが、大抵は嫌なやつだ」という趣旨の感想がたくさん見られた。
読書の感想なんて自由だから否定するつもりはないが、「エリート最低」の論調に、私はちょっと違和感を覚える。
■登場する東大生の何が問題なのか
私も読みながら「こいつらクソ東大生だな」と心底思った。怒りも覚えた。でもそれは、彼らのエリート意識についてではない。
偏差値というひとつの基準が大学間に存在し、それを前提とした受験競争がある限り、「どの大学に入ることも等しく難しい」とか「通う価値がすべて同じである」とか善人ぶって綺麗事を言うつもりは微塵もない。
たとえば難しい大学に入ったから、大企業に勤めているから、名誉ある立場にいるから、自分をアッパーな人間だと思うのは、別に自由だろう。
エリート意識の何が悪い? 何も悪くない。単なる自己評価の問題だ(それにしたって登場人物らのエリート意識は強すぎて理解しがたいが……)。
私の嫌悪感の対象は、「クソ東大生」のエリート意識のその先にある、他者への行為だ。
この小説では「クソ東大生」が他大学の学生を心底バカにしている様子がひたすら描写される。それはもう、個人的に友人にはなりたくはないけれど、勝手にしろと思う。在学中、そんな人にも出会ったが、鼻持ちならないだけで別に実害はなかった。
問題はその先にある。見下している他大学の女子学生を自分たちの快楽や利益のために使う行為が許せないのだ。
人間が生まれや学歴、職業、容姿、立場、ありとあらゆることで人を見下し、「自分より下の者には何をしてもよい」と勘違いしてそのまま行動してしまう愚かさ。
偏差値で人間の尊厳を決めようとし、相手に卑劣な行為をする「クソ東大生」には、その愚かさがわかりやすく詰まっている。
■「エリートたちの愚かな行為」で終わらせないで
この本を読んで、怒りや胸くその悪さを感じた人は確実に多いだろう。
でも「勘違いエリートめ」と思って終わりなら、何の学びもない。
私たちは全員、胸に手を当てて自分自身を省みるべきだ。自分のなかに「クソ東大生」と共通する愚かさはないか、と。
次から次へと発覚してメディアを賑わせているパワハラ、セクハラ、モラハラなんかはわかりやすい。
もっと身近なところでいえば、たとえば飲食店のスタッフやタクシーの運転手、その他ありとあらゆるサービス業に従事する人(つまり自分が客になれる相手)に、横柄な態度で接していないか。
同僚でも親戚でも友人でも、立場の弱い人や心のどこかで「自分の方が強い、優れている」と思っている相手を、都合よく扱ってはいないか。
もし、そうしているなら、行為の大小が違うだけで、私もあなたも本質的に「クソ東大生」と同じだ。
エリート憎し、で終わらせるのはもったいない。自分の醜い部分をあぶり出すきっかけにしてこそ、本書を読む意義があると思う。
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