「わたしたち、結婚するのかなあ」の一言から考えるべきこと【カツセマサヒコ 連載 #3】
素敵な異性と出会うこともあれば、長く付き合っていた人と別れることもある。仕事で大きなプロジェクトが成功することもあれば、入社以来一番大きなミスをしてしまうこともある。ライターのカツセマサヒコさんが、生きていくうえで訪れるたくさんの喜びや悲しみにそっと寄り添うエッセイ、第3回。
「わたしたち、結婚するのかなあ」
プレッシャーを極力感じさせないトーンで、彼女はボールを投げた。
「ああ、うーん、どうだろうね……?」
配慮も虚しく、彼は視線を落として、その球を見逃す。
普段の何気ない会話は、これでもかというぐらい波長が合うのに、こと結婚の話になると、彼は、どうしても話題を変えたがった。
とはいえ彼女自身も、焦ってはいるものの、なぜか彼と生涯を共にするイメージが沸かなくて、「ムードが壊れるくらいなら」と、一度出したボールを引っ込めることが続いていた。
「まだ30歳だよ」と彼は言い、
「もう30歳だよ」と彼女は言った。
そんなカップルが、知人にいる。
「男女の脳の作りは違うのだ」と思うことばかりだが、
「恋人」と「結婚相手」は、求めるべき性質が異なる点が多いことも、
彼らを観察していると見えてくる。
僕は両者の違いを、よくマクドナルドのポテトに例える。
恋人でいう相性の良さは、
「ちょっとしなしなしたやつがふたりとも好き!」
くらいが、丁度いい。
でも、結婚相手でいう相性の良さは、
「彼は固いやつが好きで、彼女はしなしなしたやつが好き」
くらいの違いが、大切だと思う。
要するに、
恋人は、「共通項を喜び合える人」がいい。
結婚相手は、「違いを讃え合える人」がいい。
マックのポテトは、ふたりの嫌いな部分を残して、あとは捨ててもいいかもしれない。
でも、結婚したら、捨てられないことが多い。
降りかかる困難を、全てふたりで、食べきらなければならない。
デートは、楽しければいい。
でも、生きること、共に人生を歩むことは、時に降りかかる苦労を乗り越えなければならない。
だから僕は、お互いが苦手とする部分を相手に委ねても、
ストレスなく完食できる関係が理想だと思っている。
長く同棲しているカップルは、「紙っぺら一枚で、何が違うんだ」と、結婚を揶揄することがある。
僕はこれに、「覚悟が違う」と答える。
彼がある日、罪を犯して帰ってくるかもしれない。
それをふたりで赦せるだろうか。
彼女がある日、罰を被って帰ってくるかもしれない。
それをふたりで分け合えるだろうか。
「ふたりでいること」を、どこまで諦めず、飽きられずに続けられるだろうか。
「わたしたち、結婚するのかなあ」
彼と彼女の結末は、僕にはわからない。
でも、
「お互いの痛みや苦労、罪や罰を生涯分け合ってもいい」と思えたなら、
それは結婚してみてもいいんじゃないかと思う。
そうは思えないのだったら、
無理に結婚しなくても、人生は豊かにできると思う。
あくまでも結婚は、人生の目標ではなく、手段に過ぎないのだから、
それに縛られすぎることはない。
でも、せっかく結婚するのなら、
貴方の悲しみを最小化できるような人と結ばれるのが、きっといい。
これからの苦労や困難を、笑って乗り越えられるふたりなら、きっといい。
貴方が、甘えず、寄り添うように歩ける人と、いつか結ばれますように。
下北沢のライター・編集者。書く・話す・企画することを中心に活動中。
趣味はツイッターとスマホの充電。