Illustration / Yoshiko Murata
DRESS January2014 P.27掲載
エンディング・ノート、始めました【甘糟りり子の生涯嫁入り前】
葬儀のこと、車の契約のこと、残された膨大な洋服のこと。万が一の時のための、エンディング・ノート。
エンディング・ノートというものを買ってみた。それをウィキで調べてみれば、「高齢者が万が一に備えて、自分の希望を書き留めておく」ものとある。私はまだ高齢者ではないけれど、何かあった時に独り者は周りに迷惑だろう。というか、その周りが誰なのかはっきりしないのが、独り者でもあるのだ(もちろん、嫁にいき、この連載の筆を折る日を、今でも夢みてはおりますが……)。
四十を少し過ぎた頃から、同世代の友人知人が深刻な病にかかることが増えた。中には早過ぎる死を迎えた人もいる。見舞いや葬儀の度に、悲しみを噛みしめながらも、もし自分だったらと想像してしまい、重い気持ちになった。「自分の家族」がいない現実を突きつけられる。
急に入院することになったら、散らかった部屋の中から必要なものを持ってきてくれる人はいないし、手術中に何かがわかっても、私の代わりに大きな決断をしてくれる人もいない。
ましてや、私が死んだら、借りている部屋の契約解除やら、クルマの名義変更やら、膨大な服やバッグ、食器なんかの処分やらは、どうなるのか。だいたい私の死亡届は誰が出してくれるのだろうか。
長年の自由の代償を思い知るのは、こういう時。三十代の頃は、終わりのことなんか気にしていたら、おもしろく生きられない、自分が死んだ後のことなんて、自分には関係ないからどうでもいい、そんな風に考えていた。この歳になってやっと、なるべく他人の負担を減らすことが大人としての礼儀だと思うようになった。
今は、高齢者ではなくても抵抗なく手にとれるエンディング・ノートがけっこうある。で、ページを開いてみると、自分がしていた心配よりも、さらにたくさんの項目がある。重病の場合の告知の有無、介護が必要になった時(含む、認知症)のあれこれ、葬儀の有無、する場合はそのスタイル、お墓や相続について、などなど。
あまりの多さに、正直面倒くさくなった。どれも思いつきで書くような内容ではないので、ついつい先延ばしになる。もう、最初の一冊は練習、もしくは下書きと思わないと、書けないかもしれない。
私なら、重病の告知はして欲しい。残り時間に制限があるなら、やるべき事に優先順位が必要だし、周囲の人が隠すために気をもむなんて、絶対に嫌だ。葬儀はなるべく簡素に。できればナシでいきたいのだけれど、あれは本人ではなく係った人たちが気持ちに区切りをつけるために行うもの。友人たちのために、最低限の式は必要な気がする。とかいって、実際の葬儀に誰も来なかったりして……。
しかし、今、遺影を選んでおいても、さすがに五年たったら更新しなくちゃいけないよね〜。などと考えていると、エンディング・ノートを手にした当初の感傷的な気持ちは消え、なんというかこう、事務的な作業をしている気分になる。そういう作用も含めて、将来に不安を抱いている人は、とりあえずつけ始めてみるのはいいかもしれない。
不安って、つまりは見えないので判らないから。ひとつずつ具体的に明確にしていくと、ちょっと軽くなる。
懺悔や感謝を記しておくページもあった。このノートを通して伝わるぐらいなら、生きている間に直接いっておきたいと思う。そうなると、他人との距離感を見直したくなる。死を見つめると、生きることが色濃くなるのですね。
葬儀にかけつけてくれるであろう友人にたずねた。
「ねえ、もしも、だよ。もし、私が死んだら、形見は何がいい?」
彼女は被せるように叫んだ。
「アルファロメオ!」
びっくりしたあ。私は心のどこかで、縁起でもないこといわないでよ、みたいな言葉を待っていた。試しに、近所に住む仲の良い叔母(八十歳)に同じ質問をしたら、一応、縁起でもない、といった後、遠慮がちに、バッグ、ほら、あのエルメスの、だと。
「私にはあれ、重くないかしらねえ」
などと、すっかりエルメスのバッグをもらった気でいる。他、誰一人として、思い出が形見よ、みたいな、クレジットカードのCMみたいな返答はナシ。
絶対に生きてやる。アルファロメオもエルメスもバカラもシャトー・マルゴーも渡してたまるか。エンディング・ノートには、こんな効力もある……。