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ただあなたの横にいるだけ

人の身体が社会的な目線から逃れて、ただそこにいることができるようになったとき、そこにはきっと穏やかな時間が流れるのではないか。どんな肌なのか、お尻の形をしているのか、毛が生えているのか、そういったことに意味を持たせず、自分と好きな人との存在を喜べたら——そんなことを感じさせてくれた2人の写真家のお話しです。

ただあなたの横にいるだけ

好きな人とただいるひとときを

 私たちはふだん、いろんなものを見て、いろんな人と会う。自分自身のいろんないい面わるい面もいっぱい見る。そうしたとき、それらのさまざな対象に、どうにか意味を付与させたいという思いがつい頭をもたげる人もいるのではないでしょうか。
 私はときどき、ものとか人のとなりに、場所とか風景のなかに、ただ「それ自体とそれ自体」でいることはできないか。そう思う。SNS疲れでデジタルデトックスをしたり人疲れで社会を少しお休みしたりする人にも、そういう思いがあるのかな、とふと思ったりもします。
 人は、いちいちボケたりツッコんだりしてしまうものだなとよく思います。比喩的な意味でも語義通りの意味でも。
 「なにこれ」「これってなんか変じゃね」「素敵」「これからひと安心」。ジャッジメントはときどき、ボケたニュアンスでもされる。「ルノワールのこの絵画の顔、お笑い芸人のあの人みたいw」「こんな高い手作り家具、中古車が買えそうw」。オモシロを気取ってシニカルさを含んで草を生やす。
 なにか固定観念にとらわれて自分や他人へのジャッジをしてすごすこと。そんなふうに人と過ごすのは、やっぱり悲しいことだと思う。でも、そんな態度から離れてしまえる。救いを感じる2人の写真家がいました。

藤岡亜弥さんの写真

 去年、私は不安と抑うつでしばらく休んでいた。動画サイトで瞑想とかマインドフルの音声を、(なるべくスピリチュアルじゃないものを選んで)よく聴いていた。そのなかに、ボディスキャンというマインドフルネスのスタイルがあった。頭からつまさきへ、一つ一つの部位に注意を向けていく(上から下へ自分の体をスキャンしてく)もの。
 教示の音声が胸やお尻に至ったとき、ふと思った。女性に対して胸やお尻が性的な部位だとされて「ウエストとヒップ」と呼ばれている(ジェンダー化されている)けど、きっとただの体のはずだ。ただの胸でお尻であったはず。そんなことを感じた(瞑想としては失敗であったのかもしれませんが)。
 しばらくして、東広島市立美術館で藤岡亜弥さんの写真を不意に初めて見た。県内の風景や人が川へ入る写真があった。そこに写る人たちは、どこかへ方向づけられていなかった。客体化(前回記事参照)も、撮る人が一方的に主体化してしまうことも、社会の規範に合うように撮る社会化も、なかった。なにも判断なく、ものを、人を、身体をまなざす。ただそれを縁取っているということを除いて、なんの恣意性も感じなかった。
 写っているものが、ただのそれとして写っていた。ものや体を前にして、人を人自体として見る目線があると思った。ひいては、見てさえいなくてただ“いる”のだと思った。

コムラマイさんの写真

 「powers of ten」というビデオアート作品がある。
カメラが人にズームし、人の肌の肌理(きめ)にズームし、身体内部に入っていく。途中から人が、あるいは人の体が意味を持たなくなって、加速度的に、それがなんなのかわからなくなる。人の体に付与されている記号性が加速度的に剥がれていく。見ていると荷が降りる。ただの裸じゃないか。

 コムラマイさんの写真は、人の体を接写しているものがいくつかある。あるときコムラマイさんの作品を見ている中に、人体が迫ってくる感じでグロテスクだなと思った接写の写真があった。でもそれはトマトだった。人の肌ではなく野菜の写真だった。彼女のレンズが近づいた人の体は、意味が剥がれて、それがなんなのかわからなくなって、野菜や果物と相似する。

セルフケアとセルフプレジャー

 恣意性なく近づいた体はもう、ただの体でさえなくなって、ただニュートラルに刺激を受け取る場所になるのだと、2人の写真家を通して見えてくる。そのように、何かにとらわれることなく自分の体を上から下へとなぞっていったとき、心地よく、気持ちよくいられるのだと思う。そして、その人自身の不安や抑うつ、隣にいる人のそれらも減っていくのだと思う。

 人は、自分の体ひいては心、もっと言うと自分という存在を、社会的な目線で(性的魅力とか美しさとかひいては健康とか)ジャッジメントしてしまうことがある。しかし、社会化も客体化も主体化さえもせずに「ただいる」というありようは、マインドフルネスな状態になれたら、それは本当の心地よさにつながるはず。社会的なスタンダードへの競争にとらわれた恣意的な意味づけからほだされて、ただ穏やかに自分や好きな人といるんだから。

 私たちがふだん、自分やパートナーの肉体と接するとき、ついそれらに意味を付与させてしまう。どんな胸やお尻だとか、どんな胸板や体毛だとか。2人の写真家のレンズのようにただ近づいて、体に近づいて喜ぶこと。そのようなことがより素敵な2人の喜び、あるいはセルフプレジャーにつながるのかなと思う。そして、それこそが自分を、素敵な人をケアすることなのかな、なんて思う。

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