自分の価値観が揺さぶられるとき、積極的に黙ることができるか?
私たちの多くは衣服を身にまといながら生きています。時代や流行の影響を受けながら、装いの形は変化してきました。しかし、変わってきたのは衣服そのもののデザインやコーディネートだけではないのかもしれません。
ある服装がどんな意味をもっているか―それは、そのお洋服自体からは、実はほとんどわからないと思う。そのお洋服の背景(文脈)こそが、実は、本体で本質なんじゃないか。過去との違いと周りとの違いという縦糸・横糸で織りなされる織物が、いま私とあなたが着ているものなのだと思う。
たとえば、今年流行ったファッションとして、やはりY2Kがあると思う。この言葉そのものは、Year2000という意味。でもこの言葉がファッションの文脈で使われるときは、(主にウィメンズの)Year2000ファッションのこと。2000年ごろのファッションが昨年リバイバルされた(確かにファッションは20年周期だ)。
Y2Kファッションは、タイトさ(ベルボトム・フレアパンツ)、肌見せ(ヘソ出し・オフショルダー・ローライズ・ショート丈)・キラキラ(ラメ)が特徴だと思う。(低賃金労働などの問題を含みながら)格安を実現しているファストファッション通販サイト「SHEIN」に多くあったり、aespaなどのKポップのガールズグループの人が着たりしていた。
■みんなと同じようにみんなと違う
最近は双子コーデ(細かい部分までおそろいにしたペアルック)よりリンクコーデ(一部のアイテムや色・柄をおそろいにするコーデ)がかわいい―そんな話が、朝の情報番組でやっていた。完全にいっしょじゃないし、完全にちがうわけでもない。ほどよく違うけど、つながり(リンク)はある。——そんなリンクコーデが表すように、友達グループの中で何を着るかは、そのコミュニティの価値観に則ったうえで違うものを着るのがマナーなのだと思う。
自分の話になるけれど、中学校は怖い人たちがいっぱいだった。たとえば、男子生徒。不良っぽい生徒たちが、学ランのボタンの裏を「喧」「嘩」「上」「等」とか「天」「上」「天」「下」「唯」「我」「独」「尊」にみんなで変えていた。みんなでする浮かない逸脱が大人や集団への反抗だなんて。私は素朴にノレなかった。
■みんなと違う、みんなとの違い
性的客体化という言葉がある。他の人のことを性的な機能とか部位だけでとらえてしまうこと。自己客体化という言葉もあって、自分のことを性的な機能とか部位でとらえてしまうことをいう。これらが心身に悪い影響を与える。つまり、不安になったり、自分の体型が恥ずかしくなって摂食障害につながったりするということがたくさん示されている。
だから、「女性が自分のことをセクシュアライズ(性的に重視とか強調する)ことは男性からのまなざし(male gaze)に応じることで、女性にとって良くない」という批判もされている。たしかにそう思う。
でもそうやって女性が自分をセクシュアライズするのを古臭い価値観から非難するのだって単におじさん臭いスラット・シェイミング(「はしたない」という非難)かも―そういう風にも思う。たとえば、ビリー・アイリッシュはダボダボの服をよく着ていた。そのことでよく話題になってたし、それをやめたときも話題になった。
たとえば、
「胸が小さい人はタンクトップ1枚でも許されるのに、私が同じタンクトップを着ると、“胸が大きいから”という理由だけでスラット・シェイミングされる」
――「ビリー・アイリッシュ、3枚の写真に映る「巨乳」が原因で“失ったもの”がケタ違い」より
という風に、ビリー自身語っている。胸を見てくる“アナタ”の目― male gaze ―が、いちいち「エロい」だの「はしたない」だの言うということだろう。だから、「勝手にエロいだのはしたないだの言うのは、やめたほうがいいのかも」ということを言いたいなと思う。
■いちいちみてくる
ふだんの会話やテレビなどで、何かをほめるとき「上からみたいであれだけど」という枕詞がついたり、ほめられたときに「上からだな(笑)」というツッコミが交わされたりすることがときどきある。
けなしてるわけではなくても、ほめてくることもたしかに上からだなと私もよく思う。自分がその人をジャッジする立場にあると思っていちいちほめてくる。ナンボのもんじゃいと思う。Y2Kファッションをまとったラッパーが、「するもされるもジャッジがどうでもいいな」とラップしていた。
オジサンのまなざしでいちいちほめたりけなしたりする。ほめてるんだからいいじゃん! という風に、セクハラオジサンがみんな一緒に反抗する。みんな一緒に同じ言葉を身に着けて、喧嘩上等というふるまいをしてくる。
性的客体化には、称賛的客体化と批判的客体化がある。オジサンのまなざしで性的な部位や機能として見て、称賛してくる。これも客体化。これもセクハラ。いちいち見てきて、エロいとジャッジしたりはしたないとジャッジしてきたりする。ユニバーサルスタジオジャパンでの「露出」に対して、多くの人々がこのどちらかの意味で鼻息を荒くしていた炎上が想起される。
■肌を着る
リンクコーデの紹介を観た夜、テレビ千鳥の名物企画「面白キャラを作るんじゃ」を偶然観た。中年の男性芸人たちがセット裏のアイテムをいろいろまとって即興でキャラを作るモノボケ企画。「この企画は引き算」というコメントのあと、ななまがりの人がパンイチで出てきた。
しかし、露出を増やすことは、引き算じゃなく、皮膚をまとうことなのだと思う。布を脱いだんじゃなくて、肌を着ている。お約束のなかで前例を踏まえながらも、今までの「変」とは違う変な恰好をする。決まった逸脱の仕方から逸脱した仕方で逸脱する。Y2Kリバイバルはその新たな種類なのではないかと思う。
オノヨーコのカット・ピースは、見る・見られるという二項対立を揺るがすパフォーマンスだった。ユニバーサルスタジオジャパンのような公共の場を駆け抜けるストリーキングは多くの人の目線を揺さぶるプロテストだった。60年代にミニスカートが大人社会のドレスコードを無効にするファッションとして若者に強く支持された(※1)ように、Y2Kファッションはオジサンが作ったドレスコード(すなわち何を身にまとうかの規範)を無効にする。
自分のまなざしがつい揺さぶられるときがあると思う。そういうときに許される唯一のふるまいは、良いだの悪いだのジャッジせず、ただそれに曝されることではないだろうか。積極的に黙ることだと思った。
※1:『もんぺからサステイナブル、さらにその先へ、戦後の日本ファッション史をたどる』(監修 国立新美術館・島根県立石見美術館,青幻舎,2020)