戸田菜穂連載『横顔の女』#4
「お鮨屋さん」
一番好きな食べものは? と聞かれたら、迷わずお鮨と答える。
カウンターで、まずはゆっくりお刺身をつまむのが好きだ。
二十代前半、渋谷近くの名店に、俳優の先輩が連れて行ってくださった。シンコの時期だから行こうということになり、男性三人プラスおまけの私の四人でうかがった。
本わさびは醤油に溶かさず、刺身にのせて食べること、ぬる燗のおいしさもそのとき知った。ゆずの皮を散らした煮蛤(にはま)にも感動。煮蛸もなんとも味に深みがある。卵も貝柱のうまみの甘過ぎないもので、ふわっとしつつキメが細い。
私は広島出身なので瀬戸内のおいしい魚は知っていたが、この江戸前の仕事の麗わしさに、ため息が出るほど心打たれ、先輩方と同じカウンターに並ぶ緊張感と、隠れ家のようなその店の佇まいもあり、とろけるように幸せな時間だった。二軒目に向う夏の夜、ノースリーブのワンピースの腕に感じる夜風が心地良く、ハイヒールを履いていたのに、足元がふわふわと夢見心地に軽やかだった。
いつしかその店にひとりで通うようになる。
入口の戸をガラガラと開ける時のドキドキ。
高揚感と共にとても特別なうれしい時間を過ごさせてもらった。
今も、やはりひとりのときはカウンターの店を選ぶ。「おいしい!」という言葉は、心の中より口に出したいものだ。
笑い話なのだが、20歳の記念に箱根宮の下の富士屋ホテルに初めてのひとり旅をした。そのときの夕食が、まるで鹿鳴館のような大広間でのフレンチ。ナイフやフォークがずらりという“あれ”で、それはそれは孤独だった。それからというもの、ひとりのときはカウンター。行きつけのそういう店 が、好きな街にいくつかあるといい ものだ。
あれから20年の時が過ぎ、久しぶりにそのお鮨屋さんに母と行った。
ご主人はあの頃のままの謙虚さで、昔と変わらずすべすべとした白い手だった。
だけど、何か落ち着かない。
すると、急に周りの音が消え、カウンターの隅から二番目に、背筋を伸ばして座っている20代の私がいた。
あの頃、ちょっと背伸びして、すてきな大人達に混ざって、ここで幸せな時間を過ごさせてもらってたね。本当に良かったね。
そう、こうべを垂れるように静かに思った。
それからは、また行きたいと思いながら、まだ行ってない。
あの店は、祭のあと の余韻にも似た、私の中のひとつの灯(ともしび)であり、誇りでもあり、そう、青春なのだ。
戸田菜穂