おばさんになりたくないなら、図々しいふるまいはほどほどに
たとえば電車や狭い道路で自己中心的にふるまうおばさんになりたくない――。歳をとるにつれて図々しさが増していく現象を見るたびにそう思い、自分はどうかと確かめています。人のふり見て、たまにはわが身を省みることも、ひとつのアンチエイジング法なのではないでしょうか?
そういえば、もうめっきり聞かなくなった、「最近の若いもんは」という言葉。
正直、昨今は若い人よりも、おばさん、おじさん、それ以上のお年を召された方々の方が、「最近のお年寄りは」と言いたくなるような、けっこう厄介な存在ではないかと思うのは私だけでしょうか?
自分ことは棚に上げて言わせていただきますが、アラフォー以上にもなると、悪い意味での図々しさや遠慮のなさが際立ってくる人がすごく多いと思うのです。
今回のコラムでは、この厄介な大人たちを総称して「いい歳した大人」と呼ばせていただくことにしましょう。
■電車内で図々しい人たち
たとえば電車に乗っていて、もうすぐ駅に着く、というとき。
まだ電車は止まっていないのに、混雑している車内を、奥の方から人をかき分けてグイグイと扉の前までやってくるのは、「いい歳した大人」が多い。
また、電車の発車直前の、もう扉が閉まりかけているときに、堂々と「駆け込まない乗車(扉に挟まながらも普通に乗ってくる人)」をしているのも、「いい歳した大人」の確率がかなり高いと思います(私の目視による)。
けっして駆け込み乗車がいいとは言いませんが、駆け込み乗車の場合、まだ「何か急ぐ事情でもあるのかな?」と慮ることもできますが、扉に挟まれていてもなお、ゆっくりと、そして強引に車内に侵入してくる「いい歳した大人」を見ると、「みんなを待たせているんだから、せめてもうちょっと慌ててる感出して!」などと思ってしまいます。
他にも電車でいえば、降りる人が先、というルールを無視して乗り込んできたり、降りる人の前に立ちはだかって絶対にどけようとしないのも、「いい歳した大人」に見受けられる傾向です。
■よくできた中学生と、できてない「いい歳した大人」
当然、この傾向は電車だけに限らず、仮に人ふたりがやっとすれ違える程度の道を歩いているとき、向こうから下校途中の中学生の集団が歩いてきたとしましょう。
彼らがよけてくれないのは、友達との話に夢中でこちらに気づいていないときだけで、こちらに気づけば、ちゃんと一列になってよけてくれる確率はかなり高いと思います。
こちらに気づいて、「おい、○○!」と、気づかず道をふさいでいる友人に声をかけてくれるような、よくできた子もいます。
しかし、これがランチを終えて会社に戻る「いい歳した大人」の集団の場合。
彼らはしゃべりながら道をふさいでダラダラと歩き、こちらに気づくどころか、たとえ私の顔をガン見していたとしても、まったくよける素振りナシ。
まるで、「お前がどけよ」と言わんばかりの態度。こちらによけるスペースなんてないことは、見ればわかるのに、です。
図々しい、実に図々しい。いったい何様のつもりなのか。あ、おば様、おじ様か。
■「図々しい」は、それだけでは悪ではない
もちろん、図々しいという要素も、社会生活においては役に立つことが多々あり、とくに私のように自分で仕事をしているような人間にとっては、ないといけない要素でもあります。自らガツガツいかないと、仕事を取ってこられないぞ、みたいな。
確かに、たとえばセミナー終わりに受講生に囲まれている講師の方に、後から輪の中に入ったにも関わらず、他の人を差し置いてグイグイ話しかける人の方が、講師の印象に残りやすいように、メリットがあるのは事実。
しかし、私自身も徐々に図々しくなっているアラフォーで、かつ、グイグイ行くのも大事、と思ってはいるものの、美意識が許さず、どうしても行動に移せないんですよね。
■図々しいおばさんになりたくない
それはきっと、自分自身が「図々しさの増長は老化現象である」と考えているから。だから図々しいおばさんになりたくない、と強く思うわけです。
周りのことが見えず、人に気を使えず、「自分が! 自分が!」となっている「いい歳した大人」をたくさん見ているから。
図々しさというのは、ここぞというときだけに繰り出すべき。誰彼かまわず、むやみやたらと繰り出しているのは、「いい歳のとり方」をしているとはいえないのでは。
図々しさもエイジングのバロメーターのひとつなのでは、とも考えるのです。
そんなわけで、私もうっかり図々しさを繰り出していないか、日頃の行いを省みたいと思います。
そして、必要なときでもグイグイ行けない問題については、我が我がとグイグイ行く以外の方法で、活路を見出だす術を見つけたいというのが、今年度の密かな目標です。