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ドラマのセックス描写より、芸術家の脳みそに発情する

恋愛モノの作品で描写される濃厚なキスシーンやセックスシーンが気持ち悪くなった。一方、優れた作品を遺した芸術家の脳みその動きに欲情する、と話す小島慶子さん。これならリスクゼロ!?

ドラマのセックス描写より、芸術家の脳みそに発情する

 もう何年も、恋愛モノの作品を見ていない。映画もドラマも、小説でも。もちろんそれが主題ではない作品を見ているときに、恋愛シーンやときめき描写が出てくることはあるのだけど、いつからか、それが「読めなく」なってしまった。見ても何の感情も起きない。退屈ですらある。ドラマ「逃げ恥」の「恋ダンス」で盛り上がった矢先に、こんなことを言うのもなんだが。

 美味しそうな料理の映像を見たとき、食欲を感じる人は多いだろう(私はこれもない)。摘んだばかりのバラの花が山積みにされている写真を見て、花の感触や香りが再生されるとか(これはよくある)。同じように、恋愛に関する描写を見たときに胸がきゅんとなったり、切ない気持ちを思い出すから、いろんなドラマがヒットするのだろう。

■「人間って闇」この事実に欲情する

 私は正直言うと、映像でキスシーンや絡みなどを見ると、むしろちょっと気持ち悪くなる。唾液にたくさんバクテリアがいるだろうなあとか、後で洗うの面倒くさそうだなあとか、そういうことしか浮かばなくなってしまった。

 では人に興味がなくなったのかというと、それとはちょっと違って、身の回りにいる人を前にして「この人はどんな欲望を抱えているのかなあ」と想像することはよくある。「普段はこんな感じの人だけど、怒るとどんなふうになるのだろう」「劣情に身をまかせるときには」などといろいろ妄想する。そのときに私は「人間って闇!」という事実にぞくぞく欲情しているのだ。まあ、事実じゃなくて妄想なんだけど。

 もし、そういう欲情パターンの延長上で誰かと個人的かつ性的な関係を結ぶとなると、確実に事故物件を引き当てるだろう。屈折とか背徳を抱えている男。それは面倒くさすぎる。時間があり、エナジーと承認願望にあふれていた頃の私なら、興味津々で近づいていったかもしれないが、今はもうそんなパワーはない。ひとさまの心の闇に分け入って読み解き、格闘する暇も体力もとっくに使い果たした。今は個人的な関係はいらないから、ただ「人間すげえ!」だけを味わっていたいのだ。ヒトの脳みその不思議を。

■セックスでほしいのは、相手の脳の中身じゃないか

 けど、そもそもセックスは、脳みそを混ぜたくてするものだよね。脳は頭蓋骨にがっちり守られていてじかに混ぜることができないので、最も近いところまでなんとか身体を使ってたどり着こうとすると、性器の交わりということになる。粘膜細胞レベルで触れ合えるし、お互いの欲情だだ漏れ状態を見せ合うことで、脳のデータ交換もできる。

 結局ほしいのは、相手の脳の中身なのだ。残念ながら脳みそ自体を奪うことはできないから、代わりにデータの入った遺伝子をもらって、次世代レベルでそれを実現するのが、繁殖。子供を見て「おお、混ざっとる!」なんて最初は思うけど、実は両親とは全然別個の人格を持った一人の人間が出てくることに感動する。

 私はその「自分と他人のデータが混ざり合い、結果として全然知らない人がよりによって自分の腹の中から出てくる」というミラクルを二度も見てしまったから、いわば究極のオーガズムを知ってしまったとも言えるのかも。イキ尽くした、ってことか。

 最近ときめきエキスがどっぷり出たのは、円山応挙展に行ったときだった。応挙はたくさんの精密な写生をしてそれを元に多くの作品を描いている。でもタケノコとか雲龍とか藤の花なんかの絵を見て、うおお、この人絶対に視覚で描いてるんじゃなくて、触った感じを頭の中でめちゃリアルに再生して描いている! エロい! と思った。描いてるときの応挙の脳みそに欲情した。

 絵画も文学も音楽も、作品を作った人の脳みその動きに発情してしまうから危険なのだと思う。芸術家との恋って、だから先が見えなくなるんだろうね。と、センテンススプリングだった2016年をふと振り返る。私はせめて、既に亡くなっている人の作品でときめくことにしよう。


小島 慶子

タレント、エッセイスト。1972年生まれ。家族と暮らすオーストラリアと仕事のある日本を往復する生活。小説『わたしの神様』が文庫化。3人の働く女たち。人気者も、デキる女も、幸せママも、女であることすら、目指せば全部しんどくなる...

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