共感覚者の世界をのぞいてみたら? 「共感覚」を使ったアート
音や文字に色を感じたり、色彩に音や香りを感じたりする「共感覚」。この感覚を、アートの世界に取り入れた人たちがいるのです。今回はそのひとつをご紹介します。
こんにちは、島本薫です。
前回は、「音を聞くと色が見えたり、文字を見ると美味しいと感じるなど、普通は別々に感じている感覚が同時に呼び覚まされる」共感覚というものをお伝えしました。音に色? 文字に味?
そうは言っても、どんなものだかわかりにくいかもしれません。そこで、今日はアートを通じて共感覚の世界にふれてみましょう。
■「感じる」から「表現する」へ――共感覚アートの試み
大人になっても共感覚を維持している人の中には、芸術方面にその感性を活かす人が多いといわれています。絵画をはじめ、音楽や言葉の領域で力を発揮する人もいます。
自分の見ている世界は、他の人に見えている世界と違う。
それが、共感覚者のある種「絶望的」な孤独でもあるのですが、自分の感じている世界を表現すれば、世界とつながることができると気づいたとき、目の前に新しい創造の扉が開けるのかもしれません。
もちろん、「わかってもらう」ことが創作の目的ではないでしょうけれど、持って生まれたものを活かせるなら、誰にとっても素晴らしいことですよね。
「違い」を「排除」や「孤立」の理由にするのではなく
「個性」や「才能」として、もてはやすのでもなく、カッコつけるのでもなく
ただその人らしさの表れのひとつとして、受け入れ、伸ばしていけるなら、その方が誰にとっても生きやすい世の中に近づくはず。
それでは、共感覚を使ったアートを制作している方をご紹介します。
■「受け入れる」ことから始まったアート
今回お話をお伺いしたのは、共感覚を活かしたイラストや刺繍の制作を手掛けているアーティストのゆこちさんです。
「私はなぜか、黒く書かれている文字がさまざまな色に見えます。
自分の中では『もともと当たり前の感覚』なので、生活にも支障ないし、普通の生活を送っていました。ただ文章に関しては、『読めるけど、理解できない』――今なら難読症という診断をされたのかもしれませんが――子どもだったので、母はとても心配し、少しでも変なことを言うと発言を直されてばかりいました。
その中で、いつしかこの感覚は必要ないものとして忘れ去られ、色がどうこうどころか、色の付いた絵は描けなくなり、ボールペンでの白黒画ばかり描いている状況が何年も続きました」
ゆこちさんが再び自分の作品に「色」を取り戻したのは、大人になって、自分に見えていた色付きの文字が「共感覚」によるものであることを知り、自然なものとして受け入れられるようになってからのことでした。
少しずつ、ゆこちさんは、自分に見える色の世界を独自のアートとして表現するようになっていきます。
文字に色があるとはいえ、それを作品の形に高めるのはまた別のこと。ゆこちさんのアートは、文字そのものの持つ力や人間の可能性を、改めて教えてくれるような気がします。
写経をモチーフにした共感覚アート
祈り
■違いを認め合い、受け入れることで
「自分が根本的に他人に理解できない感覚を持つとき、人間関係は難しくなる」
医師で作家の養老孟司さんは、共感覚についてこのように述べています。
「私は共感覚者ではない。しかし長年、私は人間の間のこうした問題に、ある意味で心を痛めてきた。人は自分と全く違うふうに世界を見る人を、しばしば排除する」
自分の中ではごく自然なことなのに、他人に説明してもわかってもらえない感覚がある。
そう気づくと、たいていの人は、そのことを口にしなくなります。社会から閉め出されないように。
ただ、本当に怖いのは、自分で自分を「排除」してしまうこと。
自分の中の真実を否定しながら生きるのは、とてもしんどいことですから。
それは、共感覚に限りません。
違いには、いろいろなものがあるでしょう。それでも、目に見える違いにも、見えない違いにも、ほんの少し、お互いが優しくなれるといいと思うのです。
最後にもう一度、ゆこちさんの言葉をご紹介しましょう。
「わたしのアートは、『自分の中の否定していた部分を認め、再出発したときに生まれてきた作品』です。共感覚は、昔ながらの自然で人間的な感覚だと感じています。作品を通して、自身の中から出てきたものはとても尊いものなんだよ、本当に大切なものは誰の中にもあるんだよ、と伝えることができれば幸いです」
取材協力
ゆこちあーと工房
https://ameblo.jp/yukothi/