そのときだった。何気なく見上げた視界の端に、違和感のあるものが映った。いまどき見ないようなデザインの、大きなスポーツバッグだ。それがコミックの棚の辺りを移動して行く。提げているのは色白の中学生くらいの少年で、きちんとした身なりをしていた。身にまとっている服は、いまの流行のそれも良いもので、だから余計に古びたスポーツバッグを提げていることがちぐはぐに見えた。
(50ページより引用)
一整に追われ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をした少年は、歩道を行き過ぎるひとびとに驚かれ、どうしたんだろうというような心配そうな眼差しを向けられながら、よろよろと駆けてゆく。その背中に、一整は声をかけた
「きみ――ちょっと待って」
少年は泣きそうな顔をして、そのままふいに、道路に飛び出していった。
(56~57ページより引用)
ネット世界の脆さと温かさが同居する1冊【積読を崩す夜 #3】
連載【積読を崩す夜】3回目は、2017年本屋大賞ノミネート作『桜風堂ものがたり』(著:村山早紀)をご紹介します。月原は百貨店内の銀河堂書店に勤める物静かで人付き合いが苦手な青年。隠れた名作を見出す才能を持っていたが、ある事件から書店を追われることに。傷心の月原は桜風堂という書店を訪れたが、そこには奇跡の出会いが……。
積んであるあの本が、私を待っている……。少し早く帰れそうな夜、DRESS世代にじっくりと読み進めてほしい本をご紹介する連載【積読を崩す夜】。3回目は、2017年本屋大賞ノミネート作『桜風堂ものがたり』(著:村山早紀)を取り上げます。
「涙は流れるかもしれない。けれど悲しい涙ではありません」
田舎町の書店・桜風堂がその舞台。ある事件がきっかけとなり、物静かで人付き合いが苦手な青年・月原は、勤めていた街の老舗百貨店内の書店を追われ、ひょんな縁から田舎の小さな書店である桜風堂を訪れます。そして、月原を中心に、人の心が次々につながり、思いがけない心温まる奇跡が起きて……。
■銀河堂書店で起きた、ある事件
月原一整は、駅前に建つ老舗百貨店の中にある銀河堂書店に勤める青年。文庫担当の書店員として働き、「宝探しの月原」という異名を持っていた。
それは、すでにあるベストセラーや、売れると決まっている本を売ることには興味がなく、未知のヒット作を探し出すセンスに優れていたからだ。そうして探し出した本を、棚や平台に並べてPOPを置き、光を当てる才能が桁外れだったのだ。
そんなある日、店の中で不自然な行動をする少年に、一整や他の店員たちは気づいてしまった。駆け出した少年を一整は追いかけた。日頃、本が好きで大切に一冊を買い求めていた真面目そうな少年。……盗み方が手慣れているのに雑すぎる、あの彼がどういう理由で盗んでしまったのかと思いながら。
そして、少年は逃げる途中で事故に遭う。幸いにも、命に別条はなかったが、万引きの理由は、同じクラスのあまりよくない同級生に目をつけられ、脅されていたからだった。
見つかって良かった、と話す少年。
やがて、万引きは悪いことだったかもしれないけれど、中学生を車道に飛び出させるほどに追いかける必要があったのかという声が、巷に拡散するようになった。
銀河堂書店には抗議の電話が鳴り響き、インターネット上でのささやきが怒号へと変わっていった。一整と書店に向けられる非難の声。「君は悪くないから」と言ってくれる仲間たち。
やがて一整は、仲間とひいきにしてくれるお客様のために、学生時代から10年勤めた銀河堂書店から、身を引くことを決めたのだった。
しかし、ただひとつの心残りが一整の胸をよぎる。
■どうしても売りたかった、見出した本『四月の魚』
添えられたあらすじによると、夢見がちで生活力のない父親のかわりに、一家の大黒柱として強気に頑張ってきた母親が、急な病を得ることによって、それまでどこかぎすぎすしていた三世代家族の心につながりが生まれ、再構築され、復活していく物語であるらしい。タイトルは『四月の魚』。中略
これは読みたい、そして売りたい、と思った。すうっと背中に走る直感があった。
(38ページより引用)
ただひとつだけ、心残りがあった。売りたかった本があった。
「――六月に、『四月の魚』という本が福和出版さんから出ます。福和文芸文庫の書き下ろしです。著者である団重彦先生は、この本でデビューの新人作家ですが、元は著名なシナリオライターで……」淡々と説明するうちに、のどが苦しくなってきた。
(77~78ページより引用)
事件が起きる前、一整は宝物となる一冊を見つけていた。『四月の魚』は、団重彦という元・シナリオライターが書き下ろした文芸作品だ。テレビの世界では大御所だったが、いわば無名の著者の作。
どの本を推そうかと思うときに、天啓のようなひらめきが降りてくる一整の勘が働いたのだ。この本を売りたいと。
しかし、事件が起きて、『四月の魚』の納品を待つことなく、店を去らなくてならなくなってしまった。
書店の棚は、その棚を作る書店員ごとに違っていて、銀河堂書店の文庫の棚は、一整にしか作れない、世界にただ一つの棚であった。
一整は自分で作った棚を、離れなくてはならなくなった。次に棚を作る書店員によって崩され、切り替えられていく……。書店員が書店を辞めて、売り場を離れるということは、そういうことであった。
そして、心残りは『四月の魚』。自分の手で、この本を売りたかった。できれば、この店で人気に火をつけて、全国の書店に波及させたかった。万が一、話題にならずにあの本が消えていくことになったら思うと、やはり無念であった。
しかし、「大丈夫だから」「あとは任せろ」と店長が言ってくれた。「きみが守ってくれたこの店だ。受け継いだ棚と本は、今度は俺たちが守ってみせる」とまで。
そして、銀河堂書店を後にした。天涯孤独の一整は、今までの人生、書店員しか経験してこなかった。あり余る時間、これからどうしていこうかと思案しながら思いついた。
「桜野町に行ってみようかな」
会いたい人がいたことを、一整は思い出したから。
■春の旅、桜風堂店主からの願いとは
そのひとは山間の小さな町で、古い書店、桜風堂書店を経営している店主だった。先祖から受け継いだ、小さな店と本を愛し、若い頃から読んできた本についての言葉と、村の穏やかな日々を。毎日、日記のようにブログに綴っていて。一整はそのブログ、「桜風堂ブログ」の読者、大ファンなのだった。一年ほど前からは、小学生の孫を引き取ったそうで、祖父と孫との楽しげな日常も綴られるよえになっていて、それがまた良かったのだ。
(97ページから引用)
スマートフォンにメールが着信した。桜風堂の店主からだった。
『一整くん、いまどの辺りにいらっしゃいますか? もう町に着きましたか? 申し訳ないのですが、わたしの店ではなく、町営さざんか病院にまできていただけませんか? 先ほどは嬉しさと驚きのあまり、つい書き忘れていたのですが、実はいま、わたしは店にいないのです。店は休業しておりまして、わたしは病院におります。』
(193~194ページより引用)
書店から追われた一整は、行きがかり上、隣家から白いオウムを預かることになった。時間ができた一整はよくしゃべるオウムを連れて、春の旅に出ることにした。ネットでの付き合いしかない、数年越し、年長の友人に会いに。
リアル社会で、銀河堂書店が一整の居場所であったように、ネットの場では、自分のブログや「桜風堂ブログ」が、それであったといえる。
しかし、桜風堂書店の主は、体調を崩して長期入院していた。病院を訪れた一整は老人と初めて会うことができた。驚くほどにやつれていたが、笑うと目尻が下がり、まなざしが知的でどこか剽軽な様子は、ブログの写真と同じであった。
2週間ほど閉店している桜風堂について、老人は案じていた。
書店の仕事というものは、なまものを扱っていることと同じようなもの。新刊の納品とともに、古い雑誌はその都度返さなくてはならない。美容院などへの配達もある。文庫も単行本もコミックも、ある程度の段階で見切りをつけて返していく……。返す期日を過ぎると取次も出版社も、受け取ってくれなくなるからだ。
そして、老人は一整に提案する。
「うちの店を預かってはくれませんか? 」
■そして決意する、この世界は美しいから
少年は、にっこりと笑った。目尻が下がる優しい笑顔が、祖父によく似ていた。
杖を拾い上げ、一整に渡してくれた。
「月原一整さん、ですね。いらっしゃいませ。祖父から、先ほど、メールをもらいました」
(243ページより引用)
本気でやってみればいいんだ、と。大切な場所を守ろうと思って立てば、そこに立ち続けていることができるのではないだろうか。
ヒーローのように、胸を張っていたら。美しい書店と、小さな子どもと子猫と、優しい店主を背中に守っていられるのなら。
(276~277ページより引用)
この新刊は、春の「あの」万引き事件をきっかけに、勤めていた店から去ったある若い書店員が仕掛けようと準備していた本であったということ。それを彼の元職場の書店員たちが売ろうとしているのだ、ということ。
その事実がいつの間にか、書店員たちの間で噂になり、共有されていった。
(355ページより引用)
大小の桜の木々に囲まれた桜風堂は、どこか普通の店ではなく、子供の頃に読んだファンタジーに出てくる、異世界への入り口のようだった。
オウムを連れて古いその店を訪ねた一整は、老人の孫である透という名の少年と、アリスという小さな三毛猫と出会う。
店内は、懐かしくてけぶるように静かな本の匂いにあふれていた。一整は2週間、閉店していた桜風堂のさまざまな事務や作業に勤しんだ。
そして、決心する。自分がやりたかったことをさせてもらえる嬉しさと、守るべき小さなものたちのために、桜風堂を老人から預かって運営していくことを。
一整が去った後、銀河堂書店の仲間たちは、一整の志を引き継いで『四月の魚』を売るために、試行錯誤を重ねていた。そして、その逸話は、全国の書店員たちのネットワークを通じて伝わっていったのだ。
表紙の絵も装丁も美しく、品が良くてそれでいて温かい。『四月の魚』は、見えない手に守られるように、しっかりと売れていった。
そして、一整は思うのだ。
生きるということは困難が多いことだと理解していたつもりで、また立ち上げれないほどの想いや痛みを抱えることが、あるのかもしれない。
しかし、今夜のこの瞬間、世界は美しく、自分は幸福である。だからいいのだと……。
■自然に涙が出てくるような、現代のファンタジー
本という極めてアナログなアイテムの中に、インターネット世界の脆さと温かさが同時に存在していることに気づく。だからこそ、顔も知らなかったり、場所を異にしていたりする書店員同士の強い絆が、余計に胸にしみてくる。
そして、桜野町の描写はとにかく美しい。絵のような自然と、オウムや子猫たちの心の動きが、逆にリアルだ。ファンタジー要素がないにも関わらず、なぜか上質なファンタジーを読んだ後の、夢見る爽快感にあふれている。
「桜風堂ものがたり」は、泣きたいほどにすがすがしい。そして、人のつながりを信じたくなり、自然と温かい涙が流れてくるようだ。
「桜風堂ものがたり」
著者: 村山早紀
発行:PHP研究所
定価:1600円(税別)
■村山早紀 著『桜風堂ものがたり』書籍情報
■著者 村山早紀さんプロフィール
1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。『シェーラひめのぼうけん』シリーズ、『アカネヒメ物語』シリーズ、『コンビニたそがれ堂』シリーズ、『カフェかもめ亭』、『はるかな空の東』シリーズ、『花咲家の人々』、『竜宮ホテル』など、多数の著書がある。『桜風堂ものがたり』は、2017年本屋大賞ノミネート作。