華やかなファッションは着る人の心を映し出す【高田賢三】
年齢を重ねるにつれて、より自分らしく、そしてしなやかな輝きが、“服”を通して感じられるようになった、と話す高田賢三さん。ファッションは人の気持ちを彩り、着る者の心を映し出す華やかな装いなのだ。
僕が憧れのパリに発つ前、当時僕の恩師であった文化服装学院の小池千枝先生から、パリへは飛行機ではなく船で行きなさいとアドバイスを受けた。
憧れのパリ、そしてファッションの都パリ。横浜港を出発し、香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ジブチ、アレキサンドリア、バルセロナに寄港する1ヶ月の船旅を経て、マルセイユに着いた。
その船旅は自身にとって、とても優雅なひとときだった。また、フランス人がすべてのお客様に、いろいろなサービスをていねいにしてくれたことで、僕の気持ちも上がった。
当時はまだ、寄港する国々の人々は、その国の伝統的な衣装を身にまとっている時代。いわゆる民俗服が主流だった。
初めての海外でいろいろな国の伝統文化を僕は肌で感じ体験した。それが後々’70年代の僕のコレクションに多大な影響を及ぼしたといっても過言でないと思う。そして、そこで受けた感動や衝撃を僕の感覚というフィルターを通し”服”として発表した。
■僕が「色の魔術師」と呼ばれた理由
前のコラム「華やかなパリは魔法がかかった街」でも書かせていただいたが、僕のアイデンティティが日本であることも含めて、伝統的なものに新しさや洗練された美しさを表現した。
フォークロアもそうであるように、色と柄・柄と柄・そして色と色。重なり合ういろいろな要素を融合させてみた。
それは心が躍るような愛らしい要素も含めて、五感で感じたものだった。それらのコレクションを見てくれたメディアが僕のことを、「色の魔術師」と評価してくれたこともとても嬉しかった。
パリで’70年代のコレクションを発表するとき、雑誌のカバーガールにモデルをお願いした。雑誌をメインとするモデルたちなので、ショーのウォーキングは慣れていなかった。
少し和んでもらうために楽屋ではシャンパンをふるまったことも。コレクションでは、ショーのイメージに合った音楽を流し、モデルたちに服を着てもらう。
みんな楽しそうに僕の服を着てくれた。そういうショーは新しい発想だったと思う。それが今振り返ってみると、現在のファッションショーの源になっていたのかも知れない。
そして、’71年にドロテビス、シャンタル・トーマスと合同でショーを発表した試みが、今のパリコレ・プレタポルテの原型となった。
■ファッションは人の気持ちを彩り、心を映し出す
ファッション・モードは人のモチベーションも、そして心も楽しくさせられると思う。日本は靴を脱いで家に入る風習があるが、欧米にそういう文化はない。
僕は服のコーディネートもそうだが、ある意味で、靴やバッグ、帽子、アクセサリーもトータルしたものがモードだと思う。この服を着るから、この靴を選ぶ。どんな場所で、誰に合うか? など、いろいろなことを考えて、全体から考える。
たまに困るのが、帰国したときに、靴を脱いで食事をするシーン。何かバランスが崩れてしまう、と感じることもある。
今の日本の若い方のファッションは、本当に個性的でもあり、自分をどう表現したら良いかをよく知っている。新しい発想にも驚かされる。
スタイルも本当に良く、手足が長く、ウエストの位置も高く、羨ましいくらい。こう書いていると、僕がパリに着いた当時、ふとウィンドーに写った自分の姿を見て、がっかりしたのを思い出してしまう(笑)。
年を重ねる度に、より自分らしく、そしてしなやかな輝きが、“服”を通して感じられるようになった。ファッションは人の気持ちを常に彩り、その人の心を映し出す華やかな装いだと……。