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「お母さんらしくなってきた」と枠にはめられることへの戸惑いと解決法

妊娠し、いよいよお腹が目立つようになると女性は「お母さんらしくなってきたね」「母性が出てきたね」と言われやすくなる。素直に喜ぶ人もいれば、「私は変わっていないのに」と違和感をおぼえる人も。相手を社会や世間の枠にあてはめる、その言葉はすべての人に有用ではない、と知っておいたほうが良いのかもしれない。

「お母さんらしくなってきた」と枠にはめられることへの戸惑いと解決法

妊娠7ヶ月目に入った。このまま順調にいけば、年内にはお腹の子が外に出てくる。そうすると、しばらくの間は、好きな場所に行くことも、好きなことに時間を費やすのも、なかなか叶わなくなるだろう。だからこそ、残り少ない身軽な時間を楽しんでおきたいと思い、なるべく外に出て、友人や知人と会うようにしている。

その際には、当然、出産報告も併せてすることになる。もうお腹は外から見ても、目立って大きいし、今までたらふく飲んでいたアルコール類を口にしないのだから、何も言わないでやり過ごせるわけもない。しかし、なんせ妊娠報告ということをするのが初めてなもので、そこにはいろいろ感じることもある。

多くの人は妊娠報告をすると、まずは「おめでとう」という祝いの言葉をくれる。その後、体調と心境、今度の展望などを尋ねられるが、「妊婦さま」「お花畑」という言葉がちらりと頭をよぎる。「一生に何度もないイベントなんだから、舞い上がってもいいじゃない」と考えられるタイプならば、思う存分、身籠った幸せをのろけられるのかもしれない。しかし、あいにくのところ、そういうタイプではないので、都度、「この人は、妊娠や出産に興味があって、積極的にこの話題をしたいと考えているのか」もしくは「実はあんまり興味はないけど、礼儀として聞いているのか」を考えてしまう。

相手が出産経験のある女性や、子育て中の男性の場合は、向こうも自身の妊娠・出産話や、その後の育児についてなど、共通の話題として盛り上がることになるので、少し長い時間話すことになる。一方で、独身者や子どもは産まないと決めていて、出産に興味のなさそうな相手の場合は、そう長々と話しても退屈だろうと、早めに話題を変える。相手が妊活中の場合は、他人の妊娠話を「聞きたい場合」と「聞きたくない場合」があって、そのどちらかはわからないから、基本的には向こうのペースに合わせて、切り上げるタイミングを測るようにしている。もっとも、話題が出産にまつわることでなくても、これらは人と会話をする上で当然のことだと思う。

■「だんだん母性が出てきたね」に抱く複雑な思い

妊娠報告後の反応としては、妊娠前とほとんど同じように、扱ってくれる人もいれば、妊娠したことをことさらに気遣って、ことあるごとに、「足元に気をつけて」「寒くない?」と、心配の声をかけてくれる人もいて、どちらもありがたいとは思うのだけれど、正直なところ、「うーん」と思うこともある。

ひとつには「男と女、どっちがいい?」というもので、とにかく無事に生まれてきてくれさえすればいいと考えている身からすると「どっちでもいい」のだけれど、そのまま口にすると、相手に投げやりな態度の印象を与えるようで、悩ましい。「男かな」「女だと思うな」と占い師のごとく予言されるのはまだいいとして、「男だね」と断言されたり、「女がいいな」と希望を述べられるのは、さらに少し複雑な気分になる。断りなくお腹を触られることには、だいぶ慣れたものの、最初はビックリだった。
ただ、身籠って初めてわかったことは、妊娠を「まるで自分のことのように大喜びしてくれる人」がいることで、「子どもは社会(地域)が育てるもの」「子どもは社会の宝」という考えがあることは、うっすらと見知ってはいたものの、いざその片鱗を感じると、まるで知らなかった価値観に触れる思いを持つと同時に、「(そうした考えを持つ人にとっては)わたしのお腹と、お腹の子は、公共物なのか」と複雑な心境になる。

が、これらは、まだいいほうである。実のところ一番嫌なのは、それは、「お母さんらしくなってきた」「母性が出てきた」といった、自分ではまったく意識すらしていない変化の指摘だ。
というのも、それが自分では、まるっきりピンときていないことが大きいし、そもそも、「お母さんらしい」とか「母性」とは、なんだろうという疑問がある。こういう言葉を口にする人たちにとっては「お母さんらしい」や「母性」が、褒め言葉だということは、わかっている。けれど、女性の性や生き方を取材してきた中で、「お母さんらしい」や「母性」に囚われ、苦しんでいる女性たちの姿を見てきたし、わたし自身も、その言葉でくくられることには、抵抗がある。

といっても、世間一般においては、「お母さんらしくなった」は、妊婦に対する挨拶代わりの常套句で、むろん言う側には、悪意など欠片もないことはわかっているので、そこにいちいち目くじらを立てたりはしない。だからこそ、「ああ、また言われた……」というストレスばかりが溜まっていく。人に相談しようとも、誰に言えばいいのか、わからずに悩んでいたのだが、実は、ごく身近に、同じことを考えている人がいた。夫だ。

■世間の「枠」にはまることが幸せな人、そうでない人

先日のことだ。共通の友人らと飲んでいる最中に、夫がこんなことを言ったのだ。
「いやー、『父親らしくなってきたんじゃない?』とか言われるの、嫌なんだよなぁ」。
実際に体内に子を身籠り、その胎動を日々感じているわたしならばともかく、少なくとも肉体変化はひとつもない夫までもが、そんな言葉を受けているとは、まったくもって、想像もしていなかった。もちろん、一緒に日々過ごす中で、「この人、だいぶ父親っぽくなってきたわ」と感じた瞬間すらもない。だから、正直いって驚いた。

続けて夫はこう言った。「だから、俺は子どもが生まれても木に登るね」。
場がザワッと騒めき、友人のひとりが「木に登るってどういうこと?」と疑問を投げる。すると、夫は説明を始めた。いわく、自分の特技のひとつに、木登りがある。だから、「もう子どもじゃないんだから」と笑われながらも、花見やバーベキューなどで、度々木登りを披露していた。そして今回の発言に関しては、「子どもができたとしても、世間の枠にはハマらない」という宣言らしいのだ。「だからって、木に登らなくても」と皆は笑い、「俺、木登り得意だからさー」と、今年43歳の夫は胸を張っていた。

社会に生きるほとんどすべての人々は、「枠」を持っていると思う。その「枠」は自分の頭で考えて作ったものと、世間や両親から教えられ、そのまま受け取った「枠」とがある。前者の「枠」は人に理解されにくい場合がある一方で、ユニークで独自性がある。後者は、今の社会の常識に沿ってはいるが、そのぶん、旧来の価値観に凝り固まっている。
「妊娠した」と聞くと「お母さんらしい」や「母性」という言葉が反射的に出てくるのは、その後者の「枠」にはまった言動だと思う。もちろん、その「枠」の中に入ることが、幸せだと考える人もいる。けれど、そうじゃない人もいる。だからこそ、目の前の人をきちんと見つめることが大切なのだと思うのだけれど、こと結婚や妊娠、出産といった「おめでたごと」については、ついつい、思考が停止して「枠」に沿った言動をしがちだ。

いいか悪いかはさて置いて、「子どもが生まれても、木に登るね」は、その「枠」にはまるのを望んでいないことを、相手に知らせるのに、そう、悪くない言葉だと思う。「全然、母性なんてまだないですよ。毎日、お酒が飲みたくて地獄です」と愚痴めいたことを言ったり、「お母さんらしい? いやー、ないんじゃないですかね、わたしになんかは、どう考えても」と自虐するよりは、ヒステリックすぎず、ほどほどにバカバカしいところがいい。気難しくしすぎてもいいことはないし、不本意を受け入れ過ぎてもストレスが溜まる。ほどほどの具合で、残り少ない妊婦生活を楽しんでいこうと思う。

大泉 りか

ライトノベルや官能を執筆するほか、セックスと女の生き方や、男性向けの「モテ」をレクチャーするコラムを多く手掛ける。新刊は『女子会で教わる人生を変える恋愛講座』(大和書房)。著書多数。趣味は映画、アルコール、海外旅行。愛犬と暮...

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