私の基準で服選び!
服は社会と私の境界線だ。私たちは自分の基準で服を選ぶ権利がある。
ランウェイと私のリズム
服は社会と全裸の境界だ。まとっている時点でつねにすでに、自分のあり方を否が応でも示す。「食事に興味ないから」と食べている納豆ご飯だってその人の感性/人生観と状況を反映しているみたいに、ノンポリだって1つのポリシーだ。多くの人は全裸で生きないし、全裸で生きていてもそれはそれで何かを示している。ただ自由にあるだけのつもりでも、社会から遊離できない。
着る。布という平面を人という曲面がまとう。そのために、リズミカルに凹凸が作られる。たとえばISSEY MIYAKEのプリーツ。
『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE プリーツが奏でる、秋のリズム』 SPURのキャプチャ
服の側が体に合わせる。人は自分に合うリズムを得たとき、躍動する。ランウェイ形式ではなく、パフォーマンス主体の当該ブランドのショーは、 服をまとうことの喜びを軽やかに示す。
裏を返せば、人は自分を表せるもの(自分に似合う/合うと思えるもの)がないとき、しばしば周りや社会に対するあり方が固着してしまう。そして、素朴な適応や反社会性を示してしまう。
たとえば、アパレル店員に、「俺はスーツが似合うよう筋トレを始めたんだ。スーツはマッチョが似合うものだからね。あとネクタイって元々男性器が由来って説もあるんだ。これで君も綺麗に締めたくなったでしょう?」とマンスプレイニングされたことがある(私はネクタイをすぐ売った)。
そのようなスーツないしスーツ観、ひいては男性性…それらを再生産するんじゃなく脱構築する方をすればいいのに。合わせるのではなく、あるいは合わないから耐えるのではなく、規範の方を変えればいいのに。社会や美の基準に合わせて目を二重にして褒められるような競争は、もういやだ(afterでメガネを外していないビフォーアフター動画があっただろうか)。
別の例を挙げよう。「#KuToo」で前景化した、職場におけるハイヒールおよびパンプスの強制という問題。①女性だけに、②健康を損なう物が、③強いられている、という3点の問題性だろうと思う。この問題に際し、「より健康を損なわないパンプス・ハイヒールを」と、各メーカー・事業者が工夫していた。
もちろん餅は餅屋だからそれはそれだが、あくまで弥縫策であり根本的ではないだろう。対応ではあれ、アクションではない。一方、そもそも①〜③の状況がひどい(理不尽であることはもとより、差別である)ため、それ自体を転覆しようというのがKuTooひいては、声を上げるということだ。また、最近、接客業における服装規定の自由化が相次いで耳目を集めてもいる。アクション。
中がスニーカーみたいにクッション性高い革靴や、ストレッチ性に富んだテクスチャーのパンプスや、夏でもすごく軽いジャケットをつくる。そこまでして、よりスマートな適応と再生産に勤しまなくていいのに。そこまでしてハイヒール、パンプス、スーツで儲けようとしなくても、そこまでしてお互いに強い合わなくても...。一人ひとりがやめればいいのに(その“一人ひとり”の和がみんななんだから)。「スーツは考えなくていいから楽」という心持ちで率先してユニフォームを着続けるより、着やすいスーツを大真面目に試行錯誤するより、やることがあるだろう。
ルールの中での抵抗をしても、それはひっきょう小器用な適応だ。一方、ルールの転覆こそが表現だ。前者はモダンな態度であり、全くモードではない。
たとえば、「どんな服着るの?」「メンズレディース問わず好きなのを着ます」「たしかに、今の時代ならいいもんね。ジャケットとかシャツならボタンが逆になるからあれだけど、そうじゃなければ全然いいと思うよ」。という会話を、アパレル企業の重役が新入社員にしているのを見たことがあるが、それは自らのアナクロさを逆説的に開陳しているにすぎない。保守性への固執が、却って前景化している。
フォンタナの「空間概念 期待」という作品(作品群)がある。とても大きな赤の地に裂け目が入っている。この作品を不意に美術館で観た。全く知らない作品だったが、なんて美しいんだと思った。これこそがコンテンポラリーだと思った(モダンではなく)。
私は、身も蓋もないということこそが、現代的であるということだと思う。200m走を見て「自転車に乗ればいいのに」と思うことこそ現代的であり、実際に自転車を持ってきてトラックを駆け抜けてみてしまってもいいというのが現代という場だ。クラシック音楽のステージに卓球台を持ってきて演奏中に卓球していいのが現代音楽であるように。
フォンタナのこの作品は、アートフォームの中の「こういうもんだ」を切り裂いている。そして、その裂け目が「期待」なんだと思った。だからそこには、現代的でありながら、シニシズムを越えるポジティブさがある。明るい。絵画の多くは、平面の紙の上で図と地とが繰り広げられる。けど当該作品は、紙という平面の向こうに図がある(という期待がある)。「鑑賞者が今いる場所」と「紙の向こう(ここにはない図)」との往還を、鑑賞者に促す。空間概念の転覆。定義権の取り返し。
ルールの転覆をするファッション。今夏、COMME des GARCONSの展示会がやっていた。そして、それに関する動画が上がっていた。
Yohji Yamamotoとギャルソンが黒の革命を行い、黒色がモードとして(自らの手によって)定番化した。そしてその後、第2の黒として赤を提示したとのことだった。モードは定番化した時点でつねにすでにモードではないのだ。「それがモード」ってなった"その瞬間"に、それはモードじゃなくなる。いかに黒を着ないかというパフォーマティブな試みが、モードなのだろう(どれだけ着ないかということではなく、どのように着ないか)。
かつての黒が、次々に別の色になっていく。第3の黒、第4の黒、第5...。そのとき、これまでの「黒」が否定されることなく、「黒の増加」であってほしいなと思う。既存の規範をまとうことから離れてみて、新しい規範を作って選択肢を増やすこと。それこそが美しい営みだと思う。
そのように、新たな価値観を積極的に作る必要があるのだ。たとえばzipperが復刊したときのインタビューからは、カッコ悪くて古いものを軽やかに唾棄し、ただ自分らしく明るくいるふるまいがいかに大切か見てとれる。向社会的でも反社会的でもなく、非社会的な態度。規範からの遊離。何かに対する私ではなく、別にただ私がいるだけ。そのように冷静にただ自分らしくある態度こそが、誰かのためになるだろう。ただあなたの横にいるだけ。
誰にでも定義権がある
中学の音楽の授業で、ピアノの音楽を2曲聴いた。どっちが暗くてどっちが明るく聴こえますか、ということだった。前者はマイナーコードなので暗くて、後者はメジャーコードなので明るく聴こえますね、とのことだった。でもそれは同語反復だと思った。マイナーコードだから暗く感じてメジャーコードだから明るく感じるんじゃなくて、「マイナーコードだから暗く感じてメジャーコードだから明るく感じる」という説明をするから、そう感じるのではないか。つながりを逆にした説明/教育が数十年続いていたら、マイナーコードの方を明るく、メジャーコードの方を暗く感じるだろう。感性なんて簡単に構築される。
シャンプー「エッセンシャル」のCMで、「かわいいは作れる!」というものがあった。もちろんこのコピーは、「今あるかわいい像に誰でも近づける!」という意味合いなのだと思う。けど、つい、構築主義的に文字通りに誤読をしてしまう。「かわいい」は作れる。かわいいという概念や価値観は作れる。感性なんて簡単に構築できる。
たとえば昔、私は、おちょぼ口と丸顔、あと奥二重ーーそういう私の顔を我ながら好きだった。似てる有名人を見てみたくて、わくわくしてググる。検索窓のサジェストに、おちょぼ口、スペース「気持ち悪い」「ブス」。好きだった私の顔。私のまなざしがゆらぐ。丸顔を入力すれば、丸顔をカバーする髪型を勧める記事。どうやら欠点。
こうして、一人ひとりがもってた素朴な自分へのまなざしが、第三者視点という膜に覆われる。第三者視点が後頭部から刺さって私のまなざしを貫いて、その視座で私は私を、そして他者を見る。ひずんだ認知の奥二重で誰かをみる(たぶんこの奥二重はまだ短所じゃない)。こうして「何がかわいいか」が作られる。かわいいは作れる。
「かわいいは作れる」には、
①「社会的な美の基準にあなたでも則れる」という本来の意味と、
②「社会的な美の基準はあなたでも乗っ取れる」という誤読の意味とがあるのだと思う。
また、垢抜けとは往々にして、「社会的な美の基準に則れている」ことを指すことが多い。それっぽい風体へと社会化するのが垢抜け。上の①に対応するもの。一方、「社会的な美の基準という垢をはらう」ということこそが本当の垢抜けであると思う。規範という垢を剥がして個性化する、という垢抜け。上の②に対応する。
①は小器用な適応、②は抵抗だ。よくみる垢抜け動画は、往々にして前者だと思う。垢の再生産。垢抜け前で掛けていた眼鏡は垢抜け後に必ず外れていて、垢抜け前に生えていた「ムダ毛」は垢抜け後になくなる。メガネとその毛は、垢とされたまま。でも、それらを垢と定義する規範(ただの毛をムダ毛とするまなざし)こそが垢なのだ。その垢を取り払う、そんなの垢じゃないよと再定義するのが、垢抜けではないか。
たとえば、カーニバルのようなサヴェージのショーは、 美の概念を覆すことの喜びを軽やかに示すものだった。
社会化から個性化へ
DIESELが、グレンを起用してY2K的なアイテムが増え、Z世代に対するリブランディングに成功している。以下のようなことを具体化するために、もともとレディースのデザイナーだったグレンを起用し「ジェンダーレスなイメージ」によるリブランディングに着手したとのことだった。
(『人気再熱のDIESELが見つけた Z世代のスイートスポットとは』, Forbesより引用)
(『人気再熱のDIESELが見つけた Z世代のスイートスポットとは』, Forbesより引用)
上記のインタビューでは、「Y2Kなデザインであるというデザイン性だけでなく、昔から出しているブランドメッセージが若い世代の帰属意識にハマった」という風に、DIESEL人気再燃の理由が述べられている。
初回の記事で私は、「Y2Kファッションはオジサンが作ったドレスコード(すなわち何を身にまとうかの規範)を無効にする。」「自分のまなざしがつい揺さぶられるときがあると思う。そういうときに許される唯一のふるまいは、良いだの悪いだのジャッジせず、ただそれに曝されることではないだろうか。積極的に黙ることだと思った。」と結んだ。
既存のコードをポップに転覆し、かつてのコードに依拠しているまなざしたちを揺るがす。マチズモ(男らしさ)に拘泥するのをやめてブランドイメージを再構築する。そんなDIESELは、まさにオルタナティブだと思う。
気付かぬうちに存在している規範や、それ基づいた制度。それらに基づいて無意識的にしているふるまいや装い。それらは不変ではないはず。なのに、「今こうなっているからこれからもこうなっていくんだよ」という居直りによって再生産されていく。「伝統だから伝統にしていくんだよ」という同語反復で伝統になっていく。
多くの問題は「結果の根拠化」に帰着するだろう。ジェンダー二元論の再生産や、性役割や美の規範の再生産。これは端的には、「女は(男は)そういうもん」として他人や自分の性、ひいては生を規定することによるのだろう。あくまでジェンダー(社会文化的な営為としての性/社会文化的な営為の結果としての性)に過ぎないものをセックス(生物学的な「そういうもん」)と捉えて根拠にするという、ジェンダーのセックス化/セックス視。
結果の性別なのに根拠の性別だと思ってしまう。
だからこそ、環境と心理の中にある「今なぜかそうなっている」というものを見逃さずに、今のあり方を切り裂いて、習慣を変えていくこと。それを体現しているものをまとって、自分自身がそれを体現していくことが素敵ではないかと思う。
自己や他者と対話しないセルラブはただのナルシシズムであり、新しい私にもなれないし、他者をエンパワーメントとやらもできない。
たとえば、この対談が象徴的なように、虚勢と露悪を手放して他者へ開かれた反省(内省と対話)を具現化した表現こそが、本人も他者もエンパワーする。冒頭で述べたように、人は自分に合うリズムを得たとき、躍動する。でも、自分を表せるもの(自分に似合う/合うと思えるもの)がないとき、しばしば周りや社会に対するあり方が固着してしまう。そして、素朴な適応や反社会性を示してしまう。そんなありようから変わることの大切さがみてとれる。
他者とも自己とも対話せずに楽しげにセルフラブを掲げる。そんなコンセプトがない表現(あるいはコンセプトはあってもそれを人格が体現してない表現)は、盛り上がっても続かない。楽しい内輪で他者をまなざす「サークル活動」的な遊びは、ガクチカのようなものでこそあれ、デザイン性もファッション性もアート性もない。キッチュなだけの自閉的な露悪。だからキャッチーでもない。
そんな自己本位な表現が横溢して虚名を博している今だからこそ、垢をもっと纏う社会化を垢抜けと称することから、規範によって附された習慣という垢をはらう垢抜けへ。すると環境と心理が変化していくかもしれない。
上で挙げてきたような例は、背景や奥にきちんと理屈があり、あいまいで複雑な内奥を他者のために具体的に物として表現する動きではないかと思う。自己本位なまなざしで他者をしめつけるより、自分らしく価値観を揺らす。少しだけお洋服選びが楽しくなる1つの方法かもしれない。