ピロートークでだけ行ける国
知らない場所に一緒に行きたいと思うことと、セックスをしたいと思うことはどこか似ている。ほんとうに行けなくてもいいから、いつか行ってみたい国の話がしたい。雨あがりの少女さんが、ピロートークで「いま、ここ」ではない場所のことについて話す理由を綴ります。
■セックスは旅行
人を好きになると、なぜその人とセックスがしたくなるのだろう。べつに一緒にケーキを食べるだけだって充分幸せだし、性欲を解消するだけなら自慰だけでも充分スッキリできる。セックスできるなら誰でもいいとか、性器が大きい人ならいいだとか、そういう人もいるだろうけれど、私はそこまで割り切れない。やっぱり好きな人とセックスがしたいし、もしもその人と性器の形状等が合わなくてもあまり問題には思わない。挿入しなくたっていいし、何なら、身体的に気持ちよくなくたっていいとすら思う。
いつだって、好きな人と、知らない場所に行きたい。というか、私は一緒に知らない場所に行きたい人のことを「好きな人」ととらえているのかもしれない。できたら遠くの離島なんかに行ってみたいけれど、何ならそのへんの繁華街でも、自宅でもいい。どこにいたって、セックスをすれば、これまで知らなかった地点に行けるし、見たことのない景色が見えるのだから。好きな人とどうしてもセックスがしたくなるのは、そういうトリップの願望に由来しているのだ。
■ピロートークで聞く、「いつか行ってみたい国」
そんな旅のようなセックスのあとのまどろみの中で、何を話すのか。中学生のころ、親に隠れて読んだ雑誌には「ピロートークでは、セックスの感想を言いあおう!」みたいなことが書いてあった。ここが気持ちよかったとか、もっとこうしてくれたらいいとか。たしかに事後ってそういう話がしやすいし、相手に気持ちよかったと言われたら私もうれしいのだけれど、最近はそういう具体的な行為についての話をしなくなった。まだ旅気分を終えたくない。
どこか、ここでない場所の話をしていたい。たとえば、彼の昔の記憶を尋ねるのもいい。どんなところに住んでいたのか、そのころどんな景色を見て、どんな匂いを嗅いでいたのか。あるいは私の話をしてもいい。私が2歳のころに下のきょうだいを産むために病院に向かったときのお母さんの匂いとか、その夜の雪の音とか、そんなどうでもいい話。内容はなんでもよくて、とにかく親密な人と疑似的に同じ景色を見るという時間がいとおしい。
今後行きたい場所について話すのもいい。なるべく行ったことのない、よく知らない場所がいい。私はよく事後に「いつか行ってみたい国は?」と聞いてみる。台湾の屋台でエビが食べたいとか、北欧でオーロラを見てみたいとか。同じ景色を想像するだけで楽しい。さっき背中のうすい傷跡を知ったばかりの人に、「じゃあ、いつか一緒に行こうよ」と言ってみたりする。たぶん本当には行かないのだろうけど、幸せな約束に、あたたかい気持ちになる。
■ほんとうに行けなくてもいいから
事後、私の髪をなでながら、「おれ、自分の葬式について考えるのが好きなんだよね」と言った人がいた。結婚式にはあまり興味がわかないが、葬式には興味があるという。結婚は近未来すぎて、想像しやすいからつまらないようだ。一方、死はまだ遠い感じがある。死や葬式もまた、私たちにとって「どこか、ここでない場所」だ。こんな音楽を流して、こんなふうに骨を焼いて。「おれのどこの骨がほしい?」と彼が言う。「ここかな」とその美しい鼻筋を撫でる。好きだ、と思う。
いつだって、好きな人と知らない場所に行きたい。できたら遠くの離島なんかにほんとうに行ってみたいけれど、セックスやピロートークをするだけでもどこかに行った気になれる。事後に語らう知らない場所はいつもぼやけていて、あたたかくて、愛に似ている。いつか好きな人が思い出してくれたらいいなと思う。一緒にオーロラを見て、鼻の骨をあげる約束をした女がいたことを。ほんとうに行けなくてもいいから、知らない場所に行ったつもりになった夜があったことを。