言葉を怠らないということは、愛を怠らないということ
夫婦生活の中で心が満たされる瞬間は一人ひとり違う。 お金持ちだから、いいセックスができているから、大切な人と抱きしめ合う時間があるから――。パートナーの数だけ、その正解は形を変えて、ふたりの心を満たしていく。
満たされる夫婦生活とは、いったいどんなものだろうか。
お金持ちと結婚したから経済的に満たされている?
それとも体の相性がよくてとんでもなく気持ちのいいセックスをしているから体が満たされている?
じゃあ心は? お金持ちと気持ちのいいセックスをしていれば心も満たされるのだろうか、心が満たされるって一体なんだろう、きっとみんなそれぞれ違う。
わたしは、愛する人に愛されて、その愛を疑う不満も失う不安もなく、お互いの愛を常に感じられて、自分しかいない世界だと絶望し勝手に心をすり減らすようなことがない生活だと思う。
■「好き」とか「サイコー」が散りばめられている夫婦生活
わたしたち夫婦は結婚してそろそろ一年経つのだが、結婚生活がとんでもなく楽しい。
毎日朝から晩まで楽しくて楽しくてしょうがなくて、「もぉ〜こんなに楽しいならもっと早く教えてよ〜!なんでみんな秘密にしてたの〜⁉」と、世の中の既婚者の肩に軽くパンチを入れたくなってしまうほど。
朝起きれば隣で口を開けて無防備に熟睡してる人間がいて、わたしが作った朝ごはんをおいしいおいしいと言いながら食べ、わたしが作ったお弁当を持って仕事に行き昼休憩中に「今日のお弁当のおかずの卵焼きおいしかった!」と連絡がきて、夜になると綺麗に洗った空っぽのお弁当箱を片手に帰宅し、一緒に夜ごはんを食べながらテレビを観て肩の力が抜けた何気ない会話をし、夜中に手を繋いで近所を散歩し、あたたかいお茶を飲んで抱き合って眠るだけ。
その相手が、わたしが大好きな男かつ、わたしのことが大好きな男。
生活の合間に「好き」と「ありがとう」と「幸せ」と「サイコー」が散りばめられ、日常のどこを切り取ってもお互いがお互いを好きだということに疑問を抱く瞬間なんてないのだから、不満も不安も悲しみも存在するわけがない。
わたしたち夫婦は、まるで呼吸をするように手を替え品を替え愛を伝え合っている。
相手が食器を洗ってくれれば「えー!素晴らしすぎる夫じゃん!」と抱きしめ、夕食に自分の好物が並べられていれば「おれをやさしい妻と出会わせてくれてありがとう神様!」と天を仰ぎ、家の中ですれ違えば手を取り合って踊り、目が合った瞬間に堪らなくなれば「あーもう!大好きすぎる!」と叫び、デート中は「こんなにも仲良しでいいのか?!」「おれたちはあまりにも仲良すぎるな!」とふたりで恐れ慄く。
相手に伝えるだけでは飽き足らず、わたしは夫の両親や友人に「ほんとうに素晴らしい人でわたしにはもったいないぐらいです」と言うし、自分の親や友達にも「わたしの夫はほんとうにサイコーなんだよね」と言う。
しまいには、インターネットでまでわたしの夫がいかにいい男でわたしたちはいかに愛に溢れているかを垂れ流している。
だって、ほんとうのことだから。
事実を伝えて何が悪い、惚気上等である。
わたしたちは自分の気持ちを外に出して、相手の喜ぶ顔を見て、誰かに「へ〜そうなんだ」と相槌を打ってもらって、生活に愛が溢れているということを再認識しているのだ。
自分は誰かに確実に愛されているということ、しかもその相手が自分の愛する人だということを確認すればするほど、心はパンパンに満たされ、悲しみが入ってくる隙間なんてなくなっていく。
■たったひとつだけ、結婚前に決めたルールがある
結婚するにあたって、さまざまな約束や家庭のルールを決める夫婦がほとんどだと思う。
共働きをするのかそれともどちらかが家庭に入るのか、家事育児の分担をどうするのか、家計の負担額や内訳、門限や飲み会の回数、異性との接し方……など、いちいち挙げればキリがない。
わたしたち夫婦は、
・共働きか家庭に入るかは環境と体調次第
・家事育児の分担はお互い助け合いましょう
・家計の負担額や内訳はテキトー
・外との付き合いはお好きにどうぞ
という感じで、まったくと言っていいほど決めていないのだが、唯一結婚前に決めて、お互いに守る努力をしていることがある。
それは、思ったことは全部言葉にして相手に伝えること。
プラスの感情はいくら言葉にしても損することはないのだからどんどん言った方がいいと、このルールを定めてから気づいた。
元を辿れば、何もかもが好きで好きでしょうがなくて、自分にはこの人しかいない、この人と生活を共にしたい、できるだけ長い間一緒に生きていきたいと思って結婚したのだ。
相手のことが好きだから「好き」と、相手のことを愛しているから「愛してる」と、相手がサイコーだから「サイコー」と、相手が自分にとって世界一だから「世界一」と、相手が自分を大切にしてくれているから「ありがとう」という言葉がスルリと出るのは当然のことである。
相手が喜ぶから、相手の機嫌を取りたいから言っているのではなく、心からそう思っていることをただ言葉にするだけで、あたたかい気持ちになる。
日常の動作ひとつにしてもそうで、相手が自分の代わりにトイレ掃除をしてくれたら、面倒なことをしてくれてありがとう、誰しも面倒に思うことを率先してやってくれるなんて優しい、そんなあなたが大好き、という気持ちになる。
だからそう思った瞬間に「ありがとう! なんてやさしいの! 大好き!」と、そのまま本人に伝れば、相手も「そうやってお礼を言ってくれてうれしい! トイレ掃除ぐらいでこんなにも喜ぶ君はなんてかわいいんだ! そんな君が大好きだ!」と伝えてくれる。
相手が喜んでくれること、相手への感謝の気持ちがあること、お互いに好きだということがわかり、空間は愛に満ち溢れ、いいことづくめである。
「恥ずかしいから……」などとかっこつけて言葉にしないのは、あまりにももったいないのではないかと思う。
■言葉を怠らない生活は、愛を怠らない生活
結婚するときの有名な口上に、「病める時も健やかなる時も〜」なんてものがある。
そんな誓いの言葉が廃れることなく今も使われているぐらいだ、結婚生活は健やかなる時だけが永遠に続くわけではない。
思いもよらぬ大きな病める時がやってくることは必ずあるし、そもそも日常には小さな病める時が潜んでいるのだ。
いくらプラスの感情を言葉にしていたとしても、マイナスの感情が生まれないなんてことはあり得ない。
それどころか、小さな病める時が気づかぬうちに膨らんで大きな病める時に繋がってしまうことだってある。
それでもわたしたちは、このマイナスの感情すらも、言葉にして伝え合う。
「風邪をひいて体調が悪いので本日は家事を全般的におやすみしておりますが自分のペースでことを進めたいので放置しておいて欲しい」
「仕事の人間関係でとても嫌なことがあったので話を聞いてほしいけれどアドバイスを求めているわけではないので相槌だけ打ってくれ」
「PMSでイライラしているけれどあなたに対して怒っているわけではないのでわたしが良いって言うまでほっといて」
「今こういう理由であなたに対して怒っているんだけど、次からはこのやり方に直して欲しい」
そう明確に伝えるだけで、「察してくれない!」とイライラが募ることもなく、相手のふんわりとした要求に答えなくてはと悩む必要もない。
そうすれば、日常に潜む小さな病める時は、大きな病める時に繋がることなく、さらに小さくなって消えてしまうに違いない。
病める時に言葉を怠らないから、健やかなる時の言葉に疑いを持たずに済む。
健やかなる時にも言葉を怠らないから、病める時の言葉に耳を傾けることができる。
夫婦は、あくまでも他人だ。
育ってきた環境も、考え方も違うのだから、相手の気持ちがわからないのは当たり前である。
言葉の裏を読もうと疑心暗鬼になって、察して欲しいと傲慢になって、嫌われたくないと格好つけて、自分ひとりだけの世界で期待と不安と幻滅を繰り返して完結させてしまうと、心のゲージはみるみるうちに減っていく。
だからこそ、言葉を怠ってはいけない。
言葉を出し惜しみせず、自分の気持ちを自分の言葉にして伝える努力をし続けていれば、愛はちゃんと可視化される。
言葉を怠らない生活は、愛を怠らない生活。
そうした生活の積み重ねが心が満たされる夫婦生活につながるのだと思う。だからわたしはこれからも、この愛を怠らないのだ。
Text/ものすごい愛
ウェブメディア『AM』にて恋愛相談『命に過ぎたる愛なし』連載中。初の単行本『ものすごい愛のものすごい愛し方、ものすごい愛され方』4月30日発売予定、現在Amazonで予約受付中。