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クローゼットを開ける

旅ってなんだか不安になりませんか? 特にひとりで行く旅。知らない土地、知らない人、知らない言葉――悩みのタネは人それぞれだけど、生湯葉シホさんにとって、それは「なくしもの」でした。そんな家内主義の彼女に綴ってもらった旅エッセイ。どうぞ最後までご覧ください。

クローゼットを開ける



母がホテルの部屋に着いていちばん初めにすることは、備えつけのクローゼットの中を持ってきた洋服でいっぱいにすることだった。


たった2泊の旅行でも、母は必ず最低4、5着の洋服を家からキャリーケースに詰めていき、ド派手なワンピースやらパンツやらをすべて手際よくシャッシャッとクローゼットに移動させた。それが済んでしまうと、今度はドレッサーの上で化粧品の入ったバッグを開き、フェイスパウダーやら化粧筆やらを行儀よく鏡の前に並べ始める。

その様子を後ろで見ている私に、母は「あんたも荷物出しなさい」と言った。やだ、と答えると、「服がシワになるでしょ」とたしなめるように言われた。やだ、いい。私のはシワでいい。


初めて来た地の、初めて入ったホテルの客室を、まるで自分の部屋のように扱える母のことが信じられなかった。あ、その引き出しみたいなやつに入れちゃうと、帰るとき忘れる可能性高いんじゃないの。ていうかそのスペース使うなら、さっきテーブルに置いてた時計も一緒にその中入れたほうがいいんじゃないの。

……後ろから母の挙動を見てひとりでハラハラし、母がなにか大切な、高価な物を忘れて家に帰ることを想像しては、勝手に恐ろしくてたまらなくなった。

「帰るときに忘れ物したらどうするの」と一度、母に聞いたことがある。母は怪訝な顔で、そのときはホテルから電話がくるでしょと言った。外国のホテルだったらそうなるか分からないじゃん、と私が屁理屈をこねると、母はあっけらかんと言った。「それはもう、しょうがない」

私は、遠くに行きたいだとか、知らない景色を見たいという気持ちが、子どものころから人一倍薄かった。家の中で、自分の本棚に並んだ好きな絵本や漫画を眺めたり、飼っている亀にちょっかいを出したりするのがなにより好きだったのだ。

大学生のとき、ふたつ上の学年にひとり旅好きの男の先輩がいて、「旅はいい」と言われたことがあった。その人は大学を休学して世界一周をしたことがあって、インドかどこかに行って象使いの免許を取得したりしていた(象使いは2泊あればとれるよ、と教えてくれた)。

旅のなにがいいんですか、と聞くと、「旅に出ると、自分の知らなかった自分を知れるよ」と言う。

実を言うと私は、彼のようになにかにつけてひとり旅に出る人のことを、どこか白々とした気持ちで見ていた。いまここにいる自分の内面を見つめるのに、どうしてわざわざ外に出る必要があるんだろう、と思った。自分の拠点なんて、ほかでもない自分の内側にしか置き得ないはずなのに。


社会人になってから、出張で九州の離島に行く機会があった。

前日の夜、あまりに嫌すぎてベッドの中で泣いた。船酔いしたらどうしよう、レンタカーの人に会えなかったらどうしよう、と被害妄想で落ち込む私とは対照的に、出張に同行するカメラマンの女性は「すっごく楽しみですね!」と前日にメールをくれた。楽しみなわけがない。

仕事はその離島の取材だったので、初日から島のあらゆるところに足を伸ばした。ひととおりの取材・撮影を終えた最終日、帰りの船までの時間が空いてしまったのでホテルに戻って仕事をしようか迷っていると、カメラマンさんが「遊覧船乗ってみない?」と言う。

それは、その島に来たら必ず乗るべきとどの観光パンフレットにも書かれているような、離島から少し距離のある無人島のビーチまで行く遊覧船だった。小さなクルーザーで30分かけて無人島まで行き、帰りは好きなタイミングで戻ってきていいという。あまり気は乗らなかったが、カメラマンさんが行きたいなら、と思って承諾した。

遊覧船のエンジンがかかると、スーパーのBGMみたいなインストに合わせて、女性の声のアナウンスが流れた。遊覧クルーザーエメラルドにご乗船いただき……というナレーションが始まった次の瞬間、エンジンのブルルルルルルンというものすごい轟音で、音楽も声も一気に聞こえなくなる。

船は、遊覧船という名に似つかわしくないくらいの猛スピードで海上を走った。「カメラ落とさないように気をつけてくださいね」「えっ?」「カメラ落とさないように」「えっ?」「カメラ……」。どれだけ声を張り上げても隣にいる人と会話さえできないほどの轟音の中、すさまじい風のせいで飛んだ他人の乗船チケットが口の中に入ってきて、私は思わず笑った。

カメラマンさんも満面の笑みで、「すごい」とその口元が動いたように見えた。彼女は迷いなく鞄からカメラを取り出すと、船から身を乗り出すようにして荒ぶる波を撮り始めた。船は揺れ、カメラは水をかぶり、彼女はTシャツを水浸しにしながらも笑って撮影を続けていた。


「シホさんもこっち!」エンジンの音が弱まったすきを見て、彼女が笑顔で叫ぶ。呼ばれて、咄嗟に足が動いた。彼女の立っている位置までふらつきながら歩いていって、船から身を乗り出すと、宝石のような緑色の波が目の前で揺れていた。

時折、波が船底に当たると遊園地のアトラクションみたいな水しぶきが頭から降ってきたが、不思議と怖くはなかった。ふと自分の右手に目をやると、潮に濡れた手が腕まで白くきらきらと光っていた。

無人島に着いて船を降りるとき、「きょう来れてよかったね!」とカメラマンさんが言った。それがあまりに自然だったので、私まで「本当によかったです!」と柄でもない大声を上げた。遊覧船の中でイヤリングを両耳ともなくしたことに気づいたのは、家に帰ってきてからのことだった。


結局、私は旅をいまでもそんなに好きではないし、自分探しの旅、という言葉はいまでも苦手だ。短い旅に出たくらいで、自分なんて見つかるはずがないと思う。

旅のことを考えるとき、ホテルの部屋での母の姿を思い出す。

ドレッサーの前に大ぶりのネックレスやピアスをじゃらじゃらと並べ、ディナーのたった2時間のために、その中から時間をかけてジュエリーを選ぶときの母は楽しそうだった。鏡の前に立つ母が、私は羨ましかったのだ。知らない土地にいながらも、まるで自宅のクローゼットの鏡の前にいるときのように、伸び伸びと自分の拠点を自分の外に置いてしまえる母のことが。もしも旅先で持ち物をなくしたとしても、「それはもうしょうがない」と言いきれる母のことが。

家にいればなにもなくさずに済む、とずっと思っていた。

いまでも確かにそう思っているけれど、この頃はそれが、もしかしたらちょっともったいないことなんじゃないか、とほんの少しだけ思う。

私はたぶん、これから先長い旅に出ることはないけれど、4、5泊くらいの旅なら出てみてもいいかもしれない。ひとりか、気の置けない同性の友人とがいい。そのときは、ひょっとすると象使いの免許くらいなら、とってみても面白いかもしれないと思うのだ。

3月大特集「週末ふらり旅」

https://p-dress.jp/articles/6433

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生湯葉 シホ

1992年生まれ、ライター。室内が好き。共著に『でも、ふりかえれば甘ったるく』(PAPER PAPER)。

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